《追想録》 東北パイオニア元会長 石島 聡一さん
2010年6月25日
東北パイオニアの社長、会長を務めた石島聡一氏(いしじま・そういち)が11日、心不全のため都内の病院で亡くなった。76歳。

1933年(昭和8年)神戸市生まれ。中大卒後の56年パイオニア入社。購買、営業、川越工場長を経て78年、製造子会社の東北パイオニアに専務で着任。以来、常勤役員中トップの座を占め、名実ともに同社の牽引役だった。86年から社長。
経営の根幹は親会社からの自立。独自製品の開発に努め、音響機器の生産技術を生かした省力化システムや集音器「フェミミ」など現在につながる収益源を生み出した。
圧巻は次世代ディスプレー有機ELの量産化に世界で初めて成功、地方企業の奇跡として国内外から注目を集めた。いち早く海外にも工場進出、グループの中核製造拠点として2000年には悲願の株式上場を果たす。
地域貢献にも積極的に取り組み、創設した女子バレーボール部はパイオニアレッドウイングスに発展、04年にはVリーグを初制覇して大輪の花を咲かせた。98〜04年は天童商工会議所会頭。
「独自の発想力を持つ天才肌の経営者だったが、周囲への気配りも忘れない温かい人だった」と偲ぶのは現社長の塩野俊司氏。私生活では長い単身赴任生活を通じて料理の腕を磨き、知人や友人を自宅に招いて手料理を振舞った。
同社の石島時代はバブル期と重なり、ここ数年は海外展開や有機EL事業の見直しを迫られるなど逆風続き。6月13日には天童オルゴール博物館が10年の歴史に幕を下ろした。
これらを石島氏の負の遺産と片づけるのはたやすいが、故人が浮利(ふり)を追わずモノづくりに挑み、何より山形をこよなく愛していたことは衆目の一致するところ。近く「お別れの会」が催される。
経営の根幹は親会社からの自立。独自製品の開発に努め、音響機器の生産技術を生かした省力化システムや集音器「フェミミ」など現在につながる収益源を生み出した。
圧巻は次世代ディスプレー有機ELの量産化に世界で初めて成功、地方企業の奇跡として国内外から注目を集めた。いち早く海外にも工場進出、グループの中核製造拠点として2000年には悲願の株式上場を果たす。
地域貢献にも積極的に取り組み、創設した女子バレーボール部はパイオニアレッドウイングスに発展、04年にはVリーグを初制覇して大輪の花を咲かせた。98〜04年は天童商工会議所会頭。
「独自の発想力を持つ天才肌の経営者だったが、周囲への気配りも忘れない温かい人だった」と偲ぶのは現社長の塩野俊司氏。私生活では長い単身赴任生活を通じて料理の腕を磨き、知人や友人を自宅に招いて手料理を振舞った。
同社の石島時代はバブル期と重なり、ここ数年は海外展開や有機EL事業の見直しを迫られるなど逆風続き。6月13日には天童オルゴール博物館が10年の歴史に幕を下ろした。
これらを石島氏の負の遺産と片づけるのはたやすいが、故人が浮利(ふり)を追わずモノづくりに挑み、何より山形をこよなく愛していたことは衆目の一致するところ。近く「お別れの会」が催される。