《追想録》 作家・劇作家 井上ひさしさんを偲んで

2010年4月23日
 井上ひさしさんは私にとって師匠であり、同志であり、義兄弟であって、お守りでもあった。その4つを同時に失った日、奈落に落ちた。夜空にはずっと前から盟主不在の「ひさし座」という星座があった。
《追想録》 作家・劇作家 井上ひさしさんを偲んで

 ひときわ輝き鎮座するその星座から「ゆっくりおいでよ。その前にしっかり仕事をやってくれ。土産話を楽しみにしている」という声が届いた時、奈落の底に両足が着いた。失ったと思った4つもそこに集約されてあると感じた。励ましをいただいた。

 「大きくなったら桃太郎になりたい」と人生を歩み始めた井上さんは、若くしてお父上を亡くされたこともあって自分の「死」を早い時期から直視していた節がある。桃太郎と「死」との間に自分自身をも笑い飛ばす大きな心の装置を育んできた。そこからパロディが生まれた。ニッチもサッチも行かないところがミッドポイントに変わった。

《追想録》 作家・劇作家 井上ひさしさんを偲んで

 井上さんは途中からハモニカをホルン(法螺貝)に持ち変えた。
 「日本人のへそ」で衝撃的に演劇界にデビューした際、「もしかしたら私は日本のシェークスピアかモリエールになれるかも知れない」と大ボラを吹き、そのことを成し遂げた。「ロマンス」 「ムサシ」 「組曲虐殺」の3つの最高傑作は光芒となった。

 私もシベールを創業した時、果たして何カ月持つかとささやかれていた中で、4坪に満たない店の壁に向かって「山形であることは文化の個性の相違であり決して水準の差であってはならない」と誰にも届かない大ボラを吹いた。そのホラがシベールをここまで引っ張ってきた。

《追想録》 作家・劇作家 井上ひさしさんを偲んで

 平成19年4月、井上さんがシベールを訪ねてきてくれた。翌年オープン予定の遅筆堂文庫山形館は3階の使用許可が下りず、2〜3階に井上さんの蔵書6万冊をそろえる予定が2階だけの3万冊でスタートせざるを得なかった。
 ついては近い将来「井上ひさし未来館」を併設し、遅筆堂3階と直結させて発展させていきたいという希望を伝えた時、井上さんが子どものように目を輝かせて発した言葉が忘れられない。

 「僕、総合プロデューサーをやってもいいぐらいです」

シベール社長 熊谷 眞一