《追想録》 人間国宝 高橋敬典さん
2009年7月10日
東北在住者で初めて人間国宝に認定され、先月23日に88歳で死去した山形市銅町の高橋敬典(けいてん)(本名・高治(たかじ))さんの葬儀が4日、山形市の葬儀場で営まれ、参列した約260人が山形鋳物の発展に貢献した故人の業績を偲び、冥福を祈った。

鋳物職人の家に生まれた高橋さんは尋常小学校卒業後すぐ家業に身を投じ、茶の湯釜職人としての腕を磨いた。その茶釜は柔らかい曲線美と工夫を凝らした地肌、地紋を特徴とし、「敬典釜」として高く評価されるに至る。日展には昭和26年の初入選以降7連続入選、日本伝統工芸展にも連続入選を果たし、平成4年に勲4等瑞宝章受章、同8年に人間国宝に。
芸術家としての顔のほか、南部鉄器に比べ低かった山形鋳物の知名度向上にも奔走、昭和30年代から東京に足しげく通って宣伝・普及に努めた。
80歳を過ぎても創作意欲は衰えず、3年前にも3作品を完成させ宮内庁に献上したが、以後は体調を崩し入退院を繰り返していたという。長年連れ添った奥さんのチヨエさんを昨年12月に亡くし、その後を追うように天上へと旅立っていった。
芸術家としての顔のほか、南部鉄器に比べ低かった山形鋳物の知名度向上にも奔走、昭和30年代から東京に足しげく通って宣伝・普及に努めた。
80歳を過ぎても創作意欲は衰えず、3年前にも3作品を完成させ宮内庁に献上したが、以後は体調を崩し入退院を繰り返していたという。長年連れ添った奥さんのチヨエさんを昨年12月に亡くし、その後を追うように天上へと旅立っていった。

1人娘の喜代子さん(66)は「寡黙で仕事には厳しい典型的な職人肌の人でしたが、家族には優しかった。ビールが好きで戦時中、ある料亭に配給されたビールはすべて父が飲んだという逸話もあります」と笑う。
「同じ製作者として生涯をかけてこそ到達する領域があることを教えてもらった」と偲ぶのは喜代子さんの夫で葬儀では喪主を務めた映画監督の村川透(本名・高橋透)さん(72)。
悲しみの一方で高橋家には明るい話題も。敬典さんが亡くなった翌日、孫の伊藤三佳さん(35)が予定より9日早く元気な男の子を出産した。敬典さんの生まれ変わりのような男の子は麻人(あさと)君と名づけられ、山形市でスクスク育っている。
「同じ製作者として生涯をかけてこそ到達する領域があることを教えてもらった」と偲ぶのは喜代子さんの夫で葬儀では喪主を務めた映画監督の村川透(本名・高橋透)さん(72)。
悲しみの一方で高橋家には明るい話題も。敬典さんが亡くなった翌日、孫の伊藤三佳さん(35)が予定より9日早く元気な男の子を出産した。敬典さんの生まれ変わりのような男の子は麻人(あさと)君と名づけられ、山形市でスクスク育っている。