山形コミュニティ新聞WEB版

セピア色の風景帖

《セピア色の風景帖》第167回 戸沢中学校(村山市)

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 春になると毎年のように伝わってくる廃校の知らせ。村山市では2003年度を最後に、市内の中学3校(葉山、戸沢、大高根)は新・葉山中として統合された。名前の残る葉山中を含め、校舎は廃校舎とされ、備品は競売にかけられた。

《セピア色の風景帖》第167回 戸沢中学校(村山市)

 翌04年度末には西郷中、袖崎中が楯岡中に統合され、市内6校が2年の間に2校になるという急激な統廃合だった。
 使われなくなった校舎はいずれも地域に根ざした趣きのある木造造りで、惜しむ声も多かったが、生徒減と財政上の経費節減の観点から広域統合に応ぜざるを得なくなった。

 翌04年度末には西郷中、袖崎中が楯岡中に統合され、市内6校が2年の間に2校になるという急激な統廃合だった。
 使われなくなった校舎はいずれも地域に根ざした趣きのある木造造りで、惜しむ声も多かったが、生徒減と財政上の経費節減の観点から広域統合に応ぜざるを得なくなった。

《セピア色の風景帖》第167回 戸沢中学校(村山市)

 村山市白鳥にあった戸沢中の敷地裏の丘上には、かつて白鳥十郎長久を城主とする白鳥城があった。長久はのちに谷地城(現河北町)に居城を移すが、戦国時代にその政治力を発揮し、当時全国を支配する勢いであった織田信長に認められるところとなった。
 だがそのことが逆に災いする。山形城主だった最上義光から敵視された長久は、義光の謀略にはまって城の庭(現在の霞城公園内)にあった桜の木の下で斬殺された。その桜は「血染めの桜」として後世に伝わっていたが、後年、その桜は燃料として枝を切り取られるなどしたため、昭和になって枯れてしまった。
 現在では血染めの桜のみならず、白鳥城、そしてそれより規模の大きかったと伝えられる谷地城さえ跡形もない。ただ長久の首を洗ったとされる石鉢は山形市郷土資料館の庭に残されている。

《セピア色の風景帖》第167回 戸沢中学校(村山市)

 戸沢中開校に際してこの地が選ばれたのは、長久の偉業にあやかりたいという関係者の思惑があったのかもしれないが、皮肉にも長久同様、栄華は永くは続かなかった。創立の1947年から56年後、戸沢中も姿を消すことになる。
 6校を強引かつ急速に2校へ統合した当時の市長は、その後間もなく汚職で逮捕され、その職を去った。
 敷地裏の樹木の中には、長久の時代からこの成り行きを見守っていたものもあるのかもしれない。(F)

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