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悲運の提督/「判官びいき」の系譜

南雲 忠一:第4回

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司令長官拝命の理由

 真珠湾攻撃を巡る当時から今に続く議論に、水雷(魚雷や機雷)が専門の南雲に第一航空艦隊の司令長官はふさわしかったのかというのがあるが、念のために言えば、南雲本人は自身の人事には関わりようがない。
 人事は海軍大臣と連合艦隊司令長官が相談して決める。つまり、山本五十六司令長官の意を体した人事だったのである。

悲運の提督/「判官びいき」の系譜 南雲 忠一:第4回

 この人事の妥当性を判断するには南雲だけでなく、補佐する人事配置を見なければならない。
 南雲を支える参謀長に補されたのは草鹿龍之介少将(海兵41期)。南雲の5期後輩にあたり、ドイツの飛行船ツェッペリン号に搭乗して太平洋を横断したこともある航空の専門家である。
 航空参謀は名戦闘機乗りとして有名な源田実中佐(52期)。飛行隊総隊長には源田と同期で、飛行隊指導の経験豊富な淵田美津雄中佐を配するなど、当時最高の航空機の専門家が集まっていた。

 逆に、これだけ専門性の高いメンバーが集まると、リーダーに高度なマネジメント能力がなければまとまりに欠けて作戦がスムーズに遂行できなくなる可能性がある。その場合、むしろ専門外であった方が岡目八目で、全体像がよく見えてかえってうまくいくことがある。
 司令長官の山本が南雲に期待したのは豊富な艦長経験から培われたマネジメント能力であり、専門家でないことがかえってプラスに働くと判断した可能性が高い。
 むしろ素人がトップにいたがゆえに組織が機能し、真珠湾攻撃作戦が成功したのではないかと私は考えている。

 真珠湾攻撃を終えた南雲艦隊は年末に日本に戻り、翌1月初め再び太平洋に向け出撃する。日本の委任統治領トラック島(現ミクロネシア内)に到着、南太平洋の連合軍の拠点オーストラリア北部のダーウィンを空襲した。さらにインド洋上を転戦し、英領セイロンのコロンボ港(現スリランカ内)を攻撃するなど戦果を次々に挙げた。
 4月下旬に帰投、南雲は鎌倉の自宅でつかの間の休息をとり、5月27日の海軍記念日にまたも出撃命令が下る。
 目的地は運命のミッドウェー島であった。

山大学術研究院教授

山本 陽史(やまもと はるふみ)

和歌山市出身。山大学術研究院教授、東大生産技術研究所リサーチ・フェロー、日本世間学会代表幹事。専攻は日本文学・文化論。著書に「山東京伝」「江戸見立本の研究」「東北から見える日本」「なせば成る! 探究学習」など多数。米沢市在住。

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