山形コミュニティ新聞WEB版

悲運の提督/「判官びいき」の系譜

南雲 忠一:第5回

Share!

ミッドウェー海戦へ

 〝事件〟は南雲忠一率いる第一航空艦隊をはじめとする日本海軍が破竹の進撃を続けていたさなか、昭和17年(1942年)4月18日におきた。
 太平洋上で日本に接近した空母ホーネットからB25爆撃機16機が飛び立ち、東京、川崎、横須賀、名古屋、神戸などに爆弾を投下したのだ。
 真珠湾攻撃以降、太平洋戦争の緒戦で南雲艦隊に敗戦続きだった米国が日本に加えた初めての空襲で、爆撃機隊の指揮官の名称から「ドーリットル空襲」と呼ばれる。

悲運の提督/「判官びいき」の系譜 南雲 忠一:第5回

 被害は比較的軽微だったが、衝撃を受けた日本海軍はミッドウェー攻略に乗り出す。
 ミッドウェーはハワイから北西2000キロ、北太平洋にある群島で、〝中間地点〟を意味する名前からも分かるように船や航空機の中継点として絶好の位置にあった。そこに米軍が置く基地を攻略し、米艦隊が出動してくればこれも撃滅するという連合艦隊挙げての大作戦だった。
 6月5日未明、南雲率いる機動部隊の爆撃機と戦闘機が米軍基地への攻撃を開始したが、艦隊は米軍機の来襲を受け、空母4隻、航空機300機、100名以上の熟練パイロットを失うなど、壊滅的な敗北を喫した。

 実は日本軍の暗号電報はことごとく米軍に解読されていた。作戦の全体像は事前に把握され、対策が講じられていたのである。
 諸研究が批判するように、日本軍は勝利に慣れ、米軍を軽んずる気分があって事前に敵情視察を十分につかんでいなかったことも敗因である。事前の情報戦で既に圧倒的な差が付いていたわけだから、いかに南雲の手腕をもってしても勝利はおぼつかなかったであろう。

 だが、この大敗北の責任を強く感じた南雲は自決を考えるほど思い詰めた。この時、山本が南雲に送った昭和17年6月10日付けの手紙の存在が知られている。
 その中で山本は過去の優れた戦績がある南雲に、「ミッドウェーでの苦い教訓をふまえて敵を一挙に倒す策を練れ」と再起を促し、復讐を果たせと激励している。
 結果として南雲は自決を思いとどまり、他日を期すことになった。

山大学術研究院教授

山本 陽史(やまもと はるふみ)

和歌山市出身。山大学術研究院教授、東大生産技術研究所リサーチ・フェロー、日本世間学会代表幹事。専攻は日本文学・文化論。著書に「山東京伝」「江戸見立本の研究」「東北から見える日本」「なせば成る! 探究学習」など多数。米沢市在住。

記事閲覧ランキング

  • 24時間
  • 週間