山形コミュニティ新聞WEB版

悲運の提督/「判官びいき」の系譜

南雲 忠一:第6回

Share!

山本五十六の誤算

 南雲忠一率いる艦隊がミッドウェー海戦で大敗を喫し、日本は一転して追い詰められていくことになるが、連合艦隊司令長官であった山本五十六は日米戦争についてどう考えていたのだろうか。

悲運の提督/「判官びいき」の系譜 南雲 忠一:第6回

 山本は第一次大戦終結の翌年に米国に留学した経験がある。当時、大戦の主戦場となった欧州は衰退し、米国が世界経済の中心となっていた。山本はデトロイトの自動車工場やテキサスの油田を目の当たりにし、米国の圧倒的な国力を知る。
 郵便物輸送にも飛行機が使われていることを知り、その利便性と重要性に気づく。帰国後は海軍の航空畑を歩んでいく。
 昭和15年(1940年)9月、時の近衛文麿首相の別邸に招かれた山本は、日米が開戦した場合の見込みを聞かれ、「半年か1年間は暴れてみせるが、2年、3年となると全く確信が持てない、極力日米戦は回避してほしい」と答えている。近衛が書き残した有名なエピソードだ。

 山本は従軍した日露戦争の日本海海戦で負傷した経歴を持っていた。海戦には完勝したが、大国ロシアとの長期戦は不利であると知っていた日本は戦争終結を急ぐ。
 ロシアに足もとを見透かされながら米国の仲介でやっとの思いで講和に持ち込んだ。日本国民が講和条件に不満を持ち、国内で騒ぎが起きたが、実は日本にとっては薄氷の勝利だったのである。
 山本は当時の経験からも、米国相手の長期戦は日本の国力では不利で、早期終結が望ましいと考えていたのだろう。彼我の圧倒的な国力差を実体験で知悉していたのだから。
 もはや日米戦争が避けられないのであれば、開戦とともに米国に致命的な打撃を与えて戦意を喪失させ、早々に講和を進めようという意図が山本にはあった。それが真珠湾での奇襲攻撃を計画した理由であろう。

 だが真珠湾攻撃の圧勝は山本にとっては予想外で、「リメンバー・パールハーバー(真珠湾を忘れるな!)」を合い言葉に米国の戦意を高揚させる結果を招いた。
 一方、戦勝気分に酔った日本では、軍も政府も国民も、早期講和など全く念頭にない空気が支配するようになった。

山大学術研究院教授

山本 陽史(やまもと はるふみ)

和歌山市出身。山大学術研究院教授、東大生産技術研究所リサーチ・フェロー、日本世間学会代表幹事。専攻は日本文学・文化論。著書に「山東京伝」「江戸見立本の研究」「東北から見える日本」「なせば成る! 探究学習」など多数。米沢市在住。

記事閲覧ランキング

  • 24時間
  • 週間