山形コミュニティ新聞WEB版

悲運の提督/「判官びいき」の系譜

南雲 忠一:第7回

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山本との確執説を疑う

 連合艦隊司令長官で海軍大将だった山本五十六と、直属の部下であり、第一航空艦隊司令長官で海軍中将だった南雲忠一との間には確執があったという説がある。

 真珠湾攻撃で成果を挙げ、日本に引き上げてきた南雲艦隊の諸将に対して行った山本の訓示内容は厳しいものだった。要約すれば、これからが本当の厳しい闘いになるので、今回の奇襲の勝利におごることなく「勝って兜の緒を締めよ」と今後に備えることを説いた。
 「勝って~」はロシアとの日本海海戦に勝利した当時の連合艦隊司令長官・東郷平八郎も艦隊解散式で引いたことわざだが、山本のその際の態度や言葉が冷たく、いかにも南雲に対する怨念が込められているようであったと説明する本もある。
 二人に関するほとんどの書物では二人の確執があったことが前提のように書かれていて、もはや定説となった感がある。
 だが本当にそうなのだろうか? 

 太平洋戦争が始まる10年ほど前、南雲は軍縮条約に反対する〝艦隊派〟の論客として知られ、山本の腹心で後に最後の海軍大将になる井上成美ら〝条約派〟と激しく対立していた。
 そんな中でも確執の原因とされるのは、海軍のエースと目され、山本と海軍兵学校の同期で親友だった条約派の堀悌吉を予備役(現役を退き、市民生活を送りつつ有事の際の軍務復帰に備える状態)に追いやる工作にかかわったのが南雲だからだということである。
 山本はロンドン海軍軍縮会議予備交渉に参加中で、その人事を阻止することができず、南雲に深い恨みを募らせたというのだ。

 だが、当時の南雲にそこまでの力があったかを疑問視する見方もある。百歩譲って南雲が人事で暗躍し、山本との確執があったとしても、山本は日米開戦という重要な局面に私情を交えるような人物であったろうか? そもそも真珠湾の攻撃を担う要職に南雲を就けるだろうか? 
 ミッドウェー後の山本の手紙も根拠として、確執論に私は否定的な立場を取る。二人のライバル関係を際立たせようとする為(ため)にする話と思えてならない。

山大学術研究院教授

山本 陽史(やまもと はるふみ)

和歌山市出身。山大学術研究院教授、東大生産技術研究所リサーチ・フェロー、日本世間学会代表幹事。専攻は日本文学・文化論。著書に「山東京伝」「江戸見立本の研究」「東北から見える日本」「なせば成る! 探究学習」など多数。米沢市在住。

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