「判官びいき」の系譜/最上 義光:第31回
連載の終わりに
江戸幕府は大名を改易(かいえき)しても完全に消滅させることはなく、特に歴史ある名門の家は何らかの形で存続させている。
改易された最上家も近江国大森(現滋賀県東近江市)に国替えされ、1万石の大名となった後、さらに石高を削られながらも5000石の旗本として明治維新に至る。
さて、この連載では山形市史やNHK大河ドラマなどですっかりネガティブな評価が広まってしまった最上義光の再評価を試みた。大大名に昇りつめる過程で権謀術数(けんぼうじゅっすう)のかぎりを尽くしたという義光のイメージは後世作られたもので、事実はそうではなかった。
もちろん動乱期を乗り切るため様々な政略を巡らせ、一族内で争うこともあった。だがそれは義光に限られたことではなく、戦国大名が生き残る常套(じょうとう)手段だった。このことは読者の皆さんにご理解いただけたと思う。
この連載の締めくくりに彼の功績をざっと振り返っておこう。
57万石の大大名となった際の領地は、上杉家が支配した置賜地方を除く現在の山形県域、それに加えて秋田県南部の由利郡であった。
内政面では最上川の治水と水運開発、北楯大堰(きただておおぜき)の水利事業で庄内を日本有数の米どころとするなど、領民に経済的な豊かさをもたらした。
日本有数の広大な山形城を築き、城下町も含めて現在の山形市の町割りを整えた。また最上三十三観音の整備、出羽三山などの寺社宗教勢力を保護して精神面の安定を図った。これらの施策は明治維新後の統一山形県の成立の基礎となった。
全国に影響を及ぼした功績としては、なんといっても「北の関ヶ原」長谷堂合戦で上杉氏の猛攻を耐え抜き、徳川家康が天下人になる後押しをしたことであろう。
それにしても、もし最上氏が改易にならず幕末まで存続していたら、そこまでの否定的評価が定着することはなかっただろう。江戸時代を通して存続した上杉氏や伊達氏との違いはそこにある。
ただ、平成元年(1989年)に山形市に最上義光歴史館が開館して以降、義光を再評価し、その業績を発信する活動が広がっているのはまことに喜ばしいことである。(おわり)
山形大学特任教授
山本 陽史(やまもと はるふみ)
和歌山市出身。山大学術研究院教授、東大生産技術研究所リサーチ・フェロー、日本世間学会代表幹事。専攻は日本文学・文化論。著書に「山東京伝」「江戸見立本の研究」「東北から見える日本」「なせば成る! 探究学習」など多数。米沢市在住。