山形コミュニティ新聞WEB版

悲運の提督/「判官びいき」の系譜

南雲 忠一:第8回

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海軍立藩志向の米沢

 南雲忠一はどういう経緯で海軍への道を歩むようになったのだろうか。それを解き明かすには、戊辰戦争まで時計の針を戻さなければならない。

 戊辰戦争で佐幕派につき、敗者となった米沢藩では明治維新と廃藩置県の激動の中、教育によって国家有為の人材を輩出することに活路を見出そうとする。その中心となったのが宮島誠一郎(のち貴族院議員)と弟の小森沢長政である。
 宮島は幕末、米沢藩の立場を守るため諸国を回って情報収集や交渉にあたる中、幕府の軍艦奉行だった勝海舟と知り合う。藩の力を養うことが日本のためになるという宮島の考えを海舟は徹底的に批判し、藩を犠牲にしてでも国家のために尽くすべきだと説いた。
 以来、宮島は海舟を頼りつつ、新政府で米沢藩出身者が要職を占めることを目指すようになる。

 海舟が海軍に人脈があったことも幸いしてか、弟の小森沢は海軍省に入って順調に出世し、郷里の後輩たちにも海軍入りを勧めた。将校養成の海軍兵学校に米沢出身で初めて入学を果たしたのが山下源太郎だった。
 明治37年(1904年)に開戦した日露戦争で、ロシアのバルチック艦隊はバルト海から大西洋を経由してはるばる極東の軍港ウラジオストックを目指していた。経由するのが津軽海峡か対馬海峡かで見通しが割れる中、当時大佐だった山下は対馬海峡を強く主張して的中させ、日本海海戦の大勝利に導く。
 山下はのち米沢出身者として初めて大将になった。山下の三期後輩の黒井悌次郎も大将に昇進した。山下・黒井らの成功があって米沢では成績優秀な若者はこぞって海軍兵学校進学を目指した。そんな空気の中で南雲も海軍兵学校に進んだ。

 一方、山本五十六は明治17年(1884年)越後長岡で生まれた。長岡藩も戊辰戦争で新政府軍と戦った。城下にまで攻め込まれ多くの犠牲を出して敗北した。
 長岡も米沢と同じ負け組で、やはり維新後は人材育成で活路を見出そうとした(「米百俵」の逸話をご存じの方も多いだろう)。山本も郷里の期待を一身に背負い海軍兵学校を目指したのである。二人の境遇は共通点があるのだ。

山大学術研究院教授

山本 陽史(やまもと はるふみ)

和歌山市出身。山大学術研究院教授、東大生産技術研究所リサーチ・フェロー、日本世間学会代表幹事。専攻は日本文学・文化論。著書に「山東京伝」「江戸見立本の研究」「東北から見える日本」「なせば成る! 探究学習」など多数。米沢市在住。

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