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悲運の提督/「判官びいき」の系譜

南雲 忠一:第9回

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死地求めサイパンへ

 昭和17年(1942年)6月のミッドウェー海戦での敗戦後、山本五十六の激励もあり自決を思いとどまった南雲忠一はその後どのような軌跡をたどったのだろうか。

 いったん内地に帰還した南雲は、海軍の空母6隻からなる新編成の大部隊、第三艦隊の司令長官に任命された。南雲の雪辱を信じた山本の期待がうかがえる人事である。
 第三艦隊は同年に2回ガダルカナル島の攻防を巡る作戦に参加し、米艦隊と2度にわたって海戦を繰り広げた。8月の海戦では空母1隻を失ったが、10月26日から27日にかけての南太平洋海戦では米軍の空母1隻を撃沈、1隻を大破させた。
 実は10月27日は米国の海軍記念日で、「米海軍創設以来もっとも悲惨な海軍記念日」と報じた米メディアもあった。

 ミッドウェーの雪辱を果たした南雲はここで現場を離れ、佐世保鎮守府司令長官に任命された。鎮守府は各海軍区の指揮監督を担当する機関で、トップは大将・中将級が務める名誉職である。
 鎮守府長官から現場復帰した例として日露戦争時の東郷平八郎が知られているが、通常は海軍軍人の最後を飾るポストであった。18年6月には呉鎮守府に転じた。

 ところが再び現場に復帰、18年10月に南雲は再び第一艦隊司令長官に就任する。格下げの人事だったが、あえて本人が希望したのである。
 その後いったん軍令部に出仕したが、19年3月、中部太平洋方面艦隊が新たに組織されると司令長官に就任、司令部のあるサイパン島に赴く。
 生還を期すものでないことをもとより南雲は承知していたであろう。

 南雲を現場に駆り立てた最大の動機は恐らく山本の死であったろう。18年4月18日、前線視察に出た山本の搭乗機が南太平洋のブーゲンビル島上空で米軍に撃墜された。山本の後を追って自身の死地を前線に求めたような気がしてならない。
 サイパンの守備隊は米軍の侵攻に果敢に抵抗したが、頼みの連合艦隊の救援は制海・制空権を失った状況下でもはや望み得なかった。
 連合艦隊と大本営に向け、太平洋の防波堤となりサイパン島に骨を埋める、と電文で別れを告げ、19年7月6日、乱戦のうちに南雲は57歳の生涯を終えた。

山大学術研究院教授

山本 陽史(やまもと はるふみ)

和歌山市出身。山大学術研究院教授、東大生産技術研究所リサーチ・フェロー、日本世間学会代表幹事。専攻は日本文学・文化論。著書に「山東京伝」「江戸見立本の研究」「東北から見える日本」「なせば成る! 探究学習」など多数。米沢市在住。

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