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悲運の提督/「判官びいき」の系譜

南雲 忠一:第10回

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南雲を追い詰めた「空気」

 南雲忠一はなぜサイパンで玉砕しなければならなかったのだろうか。

 東京都の市ヶ谷にある防衛省防衛研究所に「教授法並びに教授心得」と題する1冊のリーフレットが所蔵されている。私が初めて全文を論文の中で紹介した資料である。
 昭和19年(1944年)に海軍省が傘下の全教育機関に配付した小冊子で、もともと山口県防府市の海軍通信学校で使われていた教官用教え方のマニュアルである。
  内容を読むと、現代の技術者教育でも通用する合理的な教授法が体系化されてまとめられている。機器操作の指導法や効果的な質疑応答の仕方、授業の組み立て方、試験問題の作り方などが具体的に説明され、今日でも十分に通用する内容である。実際に私が担当している技術指導教官の養成研修でも使用している。

 このような合理性を海軍は持っていた。だがそれと一気に2万人という非現実的な数字の通信兵養成計画とが同居していたのである。このように日本には合理性と非現実的な思考行動が混在してしまうことがまま起こる。追い詰められた状況下では、その理不尽さが見えなくなってしまう。「本土決戦」という全滅計画を大まじめに考えた人たちがいたのがその証拠である。
 西洋からもたらされた制度と日本独特の伝統的な人間関係(世間)や異論を許さない「空気」が同居しているのが近代日本の特徴だと私は考えている。

悲運の提督/「判官びいき」の系譜 南雲 忠一:第10回

 太平洋戦争開戦の昭和16年1月に出された「戦陣訓」には「生きて虜囚の辱を受けず」という一節があり、これにより多くの兵が生き残る選択肢を奪われてしまった。百歩譲って必勝を期すための激励文だったとしても、言葉は一人歩きしてしまった。
 捕虜になることは決して決して恥ずかしいことではない。勝敗は時の運なのだ。

 戦争末期、太平洋上の島々では日本軍が住民も巻き込んで玉砕していった。玉砕に疑問を持つ人も投降しようと言い出せない空気があったはずである。南雲たちに生きて他日を期してほしかった、と南雲びいきである私は思うのである。(この稿終わり)

山大学術研究院教授

山本 陽史(やまもと はるふみ)

和歌山市出身。山大学術研究院教授、東大生産技術研究所リサーチ・フェロー、日本世間学会代表幹事。専攻は日本文学・文化論。著書に「山東京伝」「江戸見立本の研究」「東北から見える日本」「なせば成る! 探究学習」など多数。米沢市在住。

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