吉良上野介:第1回
定着する悪役のイメージ
米沢藩四代藩主・上杉綱憲の実父である吉良上野介義央(きらこうずけのすけよしひさ)は、「忠臣蔵」「赤穂浪士」などで悪役のイメージが定着してしまっている。
一方で米沢にとっては恩人の側面があるほか、領地の旧吉良町(愛知県西尾市)で善政を敷いていたことは意外に知られていない。
米沢市民として、上野介の悪名をすすぎたいという私の思いにしばらくお付き合いいただければ幸いである。
米沢は「上杉の城下町」として知られるが、上杉家は三代藩主・綱勝が後継を決めないまま急死したため、綱勝の妹が嫁いでいた上野介の長男が養子に入り、綱憲と名乗って四代藩主となった歴史がある。
後継を決めないまま藩主が死亡した場合、本来なら改易(取り潰し)の対象になるが、石高が30万石から15万石に半減されながらも例外的に家の存続が許されたのは、綱勝の妻の父・保科正之(ほしな まさゆき・二代将軍秀忠の子で会津松平家藩祖)の工作に加え、幕府の儀式や典礼をつかさどる「高家(こうけ)」である吉良家の影響力があったとされている。
上野介は米沢にとっては恩人ともいえる人物なのである。
忠臣蔵や赤穂浪士で描かれる一連の事件の発端は以下のようなものだ。
元禄14年(1701年)3月14日、江戸城松の廊下で上野介に播州赤穂(兵庫県赤穂市)藩主・浅野内匠頭長矩(あさのたくみのかみながのり)が突如斬りつけた。浅野はすぐに現場にいた旗本に後ろから抱き止められ、上野介は額に軽い切り傷を負っただけですんだ。
将軍が起居し、警備がもっとも重要視される江戸城内での刃傷沙汰は御法度(ごはっと)で、内匠頭は即日切腹、赤穂藩は取り潰しとなった。一方、上野介はおとがめなしとされた。
だが2人の処分の落差に世間の人々は不公平と感じた。当時、もめ事を起こすと、仕掛けた側も仕掛けに応じた側も両者が処分されるという「けんか両成敗」のルールが定着していたからだ。
もっとも、上野介は一方的に斬りつけられたわけで、その間、終始無抵抗だった。「けんか」などでは決してない。
だから幕府の処置は妥当だったといえるのだが、世間はそれでは納得しなかった。
山大学術研究院教授
山本 陽史(やまもと はるふみ)
和歌山市出身。山大学術研究院教授、東大生産技術研究所リサーチ・フェロー、日本世間学会代表幹事。専攻は日本文学・文化論。著書に「山東京伝」「江戸見立本の研究」「東北から見える日本」「なせば成る! 探究学習」など多数。米沢市在住。