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悲運の提督/「判官びいき」の系譜

吉良上野介:第2回

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赤穂浪士の吉良邸討ち入り

 吉良上野介が赤穂浪士に討たれた事件は江戸時代から芝居や小説、ドラマ、映画にくり返し取り上げられてきた。
 例えば、前回の東京五輪の1964年(昭和39年)のNHK大河ドラマは「赤穂浪士」であった。このドラマでもクライマックスとなった吉良上野介邸討ち入りに至る事情と事件の模様を説明しておこう。

「判官びいき」の系譜/吉良上野介:第2回

 元禄14年(1701年)3月に浅野内匠頭が上野介に斬りつけた事件の後、領地の赤穂藩は取り潰しとなり、藩士は浪人となった。彼らの中では赤穂城に籠城して幕府と徹底抗戦するといった意見も飛び交ったが、家老の大石内蔵助は城明け渡しなどの残務整理にあたり、平和裏に赤穂を去った。
 実は大石たちは内匠頭の弟・浅野大学による浅野家再興に望みをつないでいた。幕閣に対してさまざま運動したが、翌15年7月、大学は広島の領主浅野本家へ預けという処分に決まり、再興の可能性は断たれた。

 この事態を受けて浪士たちは京都に集まり、内蔵助を中心に上野介を討って主君の恥をそそぐことに決した。10月以降、彼らはばらばらに江戸に下り、隅田川の東岸、相撲興行の場である両国回向院の隣、本所松坂町(現墨田区)の吉良邸へ討ち入る機会を伺った。討ち入り日には上野介が在宅していなければならない。上野介は長男が藩主である米沢藩上杉家の江戸屋敷に滞在することもあった。
 内偵の結果、12月14日に吉良邸で年忘れの茶会が催されることが判明し、上野介の在宅が確実となった。旧暦14日は満月に近く、月明かりも期待できる絶好の機会であった。
 揃いの火消装束に身を包んだ四十七士(直前にそこから1名脱落していたが)は14日深夜七つ時、正確には15日の午前4時ごろ、吉良邸の表と裏の二手に分かれ、それぞれ塀を乗り越えて討ち入った。この時吉良邸には120名前後がいたとみられるが、四十七士に圧倒され、夜が明ける前に上野介は討たれた。

 四十七士は高輪の浅野家菩提寺の泉岳寺に向かい、内匠頭の墓前に上野介の首を供えた。
 江戸の町は討ち入り事件に大いに沸き立っていくのである。

山大学術研究院教授

山本 陽史(やまもと はるふみ)

和歌山市出身。山大学術研究院教授、東大生産技術研究所リサーチ・フェロー、日本世間学会代表幹事。専攻は日本文学・文化論。著書に「山東京伝」「江戸見立本の研究」「東北から見える日本」「なせば成る! 探究学習」など多数。米沢市在住。

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