山形コミュニティ新聞WEB版

悲運の提督/「判官びいき」の系譜

吉良上野介:第3回

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忠臣蔵と米沢を結ぶ縁

 幕末の志士、長州藩の吉田松陰は23歳の時、米沢を訪れたことがある。
 松陰が江戸の長州藩邸を出発したのは嘉永4年(1851年)12月14日だが、当初は翌15日に立つ予定だった。わざわざ12月15日を選んだのには理由があった。

「判官びいき」の系譜/吉良上野介:第3回

 松陰の旅には南部(現在の岩手・青森県)藩士の江幡五郎という同行者がいた。江幡の兄は南部藩の内紛で自害に追い込まれていた。その仇と目される家老を討つため江幡は帰郷しようとしていたのだ。
 仇討ちの成功を祈願するため、赤穂浪士が吉良邸に討ち入った日と当時は考えられていた12月15日を吉日として旅立とうとしたのだった。
 米沢に向かう途中、松陰は宿屋で浄瑠璃(じょうるり)語り芸人を2日にわたって呼び、人形浄瑠璃の「仮名手本忠臣蔵(かなでほんちゅうしんぐら)」を語らせ、赤穂浪士の運命に憤り、涙している。当時の人々に忠臣蔵がいかに人気があったかがうかがえるエピソードである。

 赤穂浪士の討ち入りで命を落とした吉良上野介の領地、愛知県の旧吉良町(現西尾市内)は知多半島と渥美半島に挟まれた三河湾に面する風光明媚(ふうこうめいび)で温暖な土地である。
 私はコロナ禍以前、何度か山形大学のPRのためここにある吉良高校を訪問したことがある。
 同校からは工学部を中心に山大に入学してくる生徒がおり、校長先生に米沢から来たと言うといつも大歓迎された。理由はもちろん上野介と米沢を治めていた上杉家の縁である。 

 8年ほど前、駅から同校に向けタクシーに乗ったおり、私が米沢からの来訪だと告げると運転手さんは親しげに「浅野が吉良さんに斬りつけた理由を知ってますか?」と話し始めた。
 「このあたりは遠浅で吉良さんが塩田開発を計画し、赤穂に塩作りを教わろうとしたら断られ、そこで浅野に邪険にしたら恨まれて斬りつけられたんですよ」と言う。
 運転手さんには申し訳ないが、この説は残念ながらどうも真実味に欠ける。実際のところ、浅野がなぜ上野介に斬りつけたのかは諸説紛々(しょせつふんぷん)、いまだに謎なのである。
 ただ、吉良町と米沢が上野介をサポートしなければ誰がするのか、という心意気と連帯感を味わった。

山大学術研究院教授

山本 陽史(やまもと はるふみ)

和歌山市出身。山大学術研究院教授、東大生産技術研究所リサーチ・フェロー、日本世間学会代表幹事。専攻は日本文学・文化論。著書に「山東京伝」「江戸見立本の研究」「東北から見える日本」「なせば成る! 探究学習」など多数。米沢市在住。

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