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悲運の提督/「判官びいき」の系譜

吉良上野介:第4回

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高かった吉良の〝家格〟

 そもそも吉良家とはどんな家で、上杉家とどんな関わりがあったのか。

 鎌倉時代中期に三河国の守護だった足利義氏の長男・長氏が吉良荘(きらのしょう・現西尾市)を領有した。足利尊氏が室町幕府を開く際に協力し、足利から吉良に名乗りを変えて大名として重きをなした。
 その後、室町~戦国時代にかけ一族の内紛などもあり勢力は徐々に衰えていったが、江戸時代に入ると幕府から吉良荘内に知行として三千石を与えられ、「高家(こうけ)」として幕府の儀礼を司った。
 高家とは、朝廷との交際や日光東照宮への代参など幕府の儀式、典礼を統括する家格で、室町以来の名家が任ぜられた。

「判官びいき」の系譜/吉良上野介:第4回

 高家は一万石以下の旗本でありながら、朝廷から賜る官位では大名をしのぎ、大名家とも姻戚関係を結ぶことができた。
 五万石の大名である浅野内匠頭(たくみのかみ)の官位が「従五位下」だったのに対し、旗本の吉良上野介(こうずけのすけ)は「従四位上」と格上だった。この官位は実は老中よりも高かったのである。

 官位と同様、朝廷から与えられるものに官職がある。内匠頭とは内匠寮(たくみりょう)の調度や装飾、今で言えばインテリアを担当した部署の長官、上野介は上野の国の次官という意味である。長官である上野守(こうずけのかみ)は親王が任命される名誉職だったので、上野介は実質的な長官である。
 もちろん実際に支配しているわけではなく形式に過ぎないが、その人の格付けを典型的に示していたといえる。

 そのため吉良家は姻戚関係も華やかで、三代将軍家光の側近で老中や大老も務めた酒井忠勝の姪が上野介の母だった。そして妻に迎えたのが米沢藩三代藩主・上杉綱勝(つなかつ)の妹、富子であった。言うまでもなく上杉家も名だたる名門で、綱勝が急死した際に上野介の長男・三之助が急きょ四代藩主綱憲(つなのり)となったのはこの縁による。
 そして上野介の跡取りとしては綱憲の次男、つまり上野介の実の孫である義周(よしちか)を養子とした。このように吉良家と上杉家はきわめて近い関係だった。
 これらのことから、赤穂浪士の吉良邸討ち入りに際しては、武門のプライド、お家の維持、親族の情といった事情が交錯し、上杉家はきわめて難しい判断を迫られることになるのである。

山大学術研究院教授

山本 陽史(やまもと はるふみ)

和歌山市出身。山大学術研究院教授、東大生産技術研究所リサーチ・フェロー、日本世間学会代表幹事。専攻は日本文学・文化論。著書に「山東京伝」「江戸見立本の研究」「東北から見える日本」「なせば成る! 探究学習」など多数。米沢市在住。

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