山形コミュニティ新聞WEB版

悲運の提督/「判官びいき」の系譜

吉良上野介:第5回

Share!

松の廊下の刃傷事件

 1701年(元禄14年)3月14日、江戸城松の廊下において浅野内匠頭が吉良上野介に斬りかかるという「刃傷(にんじょう)事件」が起きるまで、内匠頭と上野介にはどんな接点があったのだろうか。

 この時2人は、年始のあいさつのために江戸に下向してきた天皇・上皇の使者をもてなす役割を務めていた。最初の仕事は幕府から朝廷に使者を派遣することに対する答礼で、実はこの年初、京都に使者として出向いたのは上野介であった。
 上野介にとっては、幕府の儀式を取りしきる高家筆頭として恒例の仕事だったが、内匠頭は天皇からの使者を接待する「勅使饗応役(ちょくしきょうおうやく)」として上野介を手伝っていた。
 「ご馳走役(ちそうやく)」とも呼ばれるこの役は、3万から5万石程度の石高が小さい大名がその都度選ばれる臨時の役である。

「判官びいき」の系譜/吉良上野介:第5回

 饗応役をつつがなくこなすことはお家にとっての一大事である。朝廷からの使者は江戸城外、現在の新丸ビルの北隣あたりにあった伝奏(てんそう)屋敷に滞在する。饗応役の大名は家老以下江戸詰めの家臣たちとともに、粗相(そそう)のないよう神経をすり減らしながら接待に務めることになる。
 しかも接待するだけでなく、勅使の滞在にかかる一切の費用も負担する必要があった。実はこれが大変な〝物入り〟で、幕府は大名の経済力をそぐため土木工事をはじめとするさまざまな役を割り当てるのが常だったが、饗応役もその一つだったのである。 

 朝廷からの使者は3月11日に江戸に到着、翌日五代将軍綱吉に謁見(えっけん)、13日は慰労のため上演された能楽を鑑賞し、刃傷の日は役目を終えた使者が綱吉に京都に帰るあいさつを行う日であった。登城した使者たちが謁見のため待機していた時に刃傷事件は起きた。
 松の廊下で上野介が大奥担当で将軍の生母・桂昌院付きの旗本・梶川与惣兵衛と立ち話をしていた時、突如、内匠頭が上野介の背後から「この間の遺恨、覚えたるか!」と叫びながら脇差で斬りかかったのである。

 〝上司〟である上野介からの指図を仰ぎながら仕事をしていた〝部下〟の内匠頭が、何らかの理由で上野介への恨みを募らせ、殿中で刃傷に及んだと見られる。

山大学術研究院教授

山本 陽史(やまもと はるふみ)

和歌山市出身。山大学術研究院教授、東大生産技術研究所リサーチ・フェロー、日本世間学会代表幹事。専攻は日本文学・文化論。著書に「山東京伝」「江戸見立本の研究」「東北から見える日本」「なせば成る! 探究学習」など多数。米沢市在住。

記事閲覧ランキング

  • 24時間
  • 週間