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悲運の提督/「判官びいき」の系譜

南雲 忠一:第3回

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真珠湾攻撃を指揮

 海軍でめきめき頭角を現していった南雲忠一は昭和16年(1941年)4月、海軍大学校の校長から第一航空艦隊司令長官に転じ、連合艦隊を統括する山本五十六司令長官のもとで真珠湾攻撃を担うことになる。

 航空艦隊は航空母艦2隻が基幹となる船隊で、航空機での戦いが海戦の主力となりつつあった当時の流れをとらえて編成されたものである。
 同年日本時間12月8日未明(現地時間7日早朝)、南雲率いる艦隊はハワイ・オアフ島の真珠湾に集結していた米太平洋艦隊に奇襲攻撃を仕掛けた。
 二波にわたって航空機350機を進発させ、米戦艦4隻を撃沈、4隻を大破、航空機188機を破壊するなど大きな戦果を挙げた。特に航空機が戦艦を沈めたのは世界の戦史上初めてのことであった。

 勝利を祝し、連合艦隊指令長官の山本には日本海海戦以来という天皇の勅語が下賜され、国内は山本への賛辞で溢れた。だが当の山本率いる主力艦隊は真珠湾から6千キロ隔てた小笠原諸島付近に出撃したのみだった。
 「トラ・トラ・トラ!(ワレ奇襲ニ成功セリ)」の「ワレ」とは南雲艦隊に他ならず、名声は本来、南雲に帰せられるべきであろう。
 だが大戦果を挙げたにも関わらず南雲指揮下の真珠湾攻撃は当時も今も議論が絶えない。その主な点を以下に紹介する。
 ①第一波・第二波攻撃で終わらせてしまい、第三波攻撃を行わなかった②真珠湾外にいた米軍のエンタープライズなど空母を湾内におびき寄せて撃破すべきだった③陸戦隊を上陸させれば島を占領できたはずだ――。 
 要するに詰めが甘かったため、その後の戦局に悪い影響を与えたのではないかというのである。世界の戦争史に残る圧倒的な戦果を挙げたことがこのような議論を呼んでいることは理解できる。

 だが、これとは別に、水雷屋の南雲が第一航空艦隊の司令長官にふさわしい人事であったのかという見方がある。
 突き詰めれば航空戦の“素人”に航空艦隊の指揮は務まらなかったのではないかというものだが、それは的外れな指摘であると私は考える。

悲運の提督/「判官びいき」の系譜 南雲 忠一:第3回

山大学術研究院教授

山本 陽史(やまもと はるふみ)

和歌山市出身。山大学術研究院教授、東大生産技術研究所リサーチ・フェロー、日本世間学会代表幹事。専攻は日本文学・文化論。著書に「山東京伝」「江戸見立本の研究」「東北から見える日本」「なせば成る! 探究学習」など多数。米沢市在住。

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