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悲運の提督/「判官びいき」の系譜

吉良上野介:第8回

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内匠頭の経済観にズレ?

 勅使饗応役(ちょくしきょうおうやく)の内匠頭と指南役である上野介が対立したのは、内匠頭が接待費と上野介への付け届けを節約したことに原因があると私は考えている。理由は当時(元禄時代)の経済状況にある。

「判官びいき」の系譜/吉良上野介:第8回

 1960年代の高度経済成長時代、平和と豊かさを表わす「昭和元禄」という流行語があった。実際、元禄時代は金余りによる〝バブル〟のような現象がしばしば起きており、その原因は当時の将軍・綱吉が主導した貨幣改鋳(かいちゅう)にあった。
 江戸時代初めに作られた「慶長小判」は金の含有量が約85%だったが、財政難から幕府は元禄8年(1695年)0、含有量を57%に減らした「元禄小判」を流通させた。慶長小判2枚で元禄小判3枚に替えられる〝錬金術〟である。おかげで幕府の財政は潤った一方、悪貨が市中に流通して貨幣価値が下がり、これが結果としてインフレを招いたのである。

 実は内匠頭は18年前、天和3年(1683年)年にも饗応役を務めている。この時は大過なく終えたが、この成功体験が悪い影響をもたらした可能性がある。
 一通りの儀式は知っているという自信と、無駄な費用は節約できるはずという見通しがあったのではないか。内匠頭は前回も接待費や付け届けの額を見積もったはずだが、当時とは貨幣価値が激変していることを軽視したふしがある。
 一説には、内匠頭が最初に使った接待費は400両だったが、2度目を務める直前の元禄10年(1697年)に別の大名が使った接待費は1200両だったという。14年で3倍のインフレだ。
 ちなみに、1両は現在の8万円程度。400両は約3000万円、1200両だと約1億円に相当する。

 内匠頭は前回の経験から、間を取って700両で収めようとしたらしい。それを聞いた吉良は、到底無理なので考え直すように忠告したが、内匠頭は聞く耳を持たず、上野介への付け届けも節約したと見られる。
 これらのことが饗応役にふさわしくないという上野介からの批判を招き、これが内匠頭のストレスにつながっていく。両者の間には不穏な空気が流れ、江戸城・松の廊下でついに破局を迎えたのである。

山大学術研究院教授

山本 陽史(やまもと はるふみ)

和歌山市出身。山大学術研究院教授、東大生産技術研究所リサーチ・フェロー、日本世間学会代表幹事。専攻は日本文学・文化論。著書に「山東京伝」「江戸見立本の研究」「東北から見える日本」「なせば成る! 探究学習」など多数。米沢市在住。

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