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悲運の提督/「判官びいき」の系譜

源 義経:第10回

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誰もが知る「勧進帳」

 和歌山県海南市の藤白神社(ふじしろじんじゃ)にある鈴木本家のほかに、紀州にはもうひとつの鈴木本家があった。熊野三山のひとつ速玉大社(はやたまたいしゃ)から見て熊野川の対岸、東側の三重県紀宝町にある鮒田(ふなだ)集落である。
 紀州は藩主徳川家が戊辰戦争の負け組だったため、一部は三重県に編入された経緯がある。

 鮒田には鈴木氏の屋敷があったという場所がある。鈴木氏は熊野三山に関係が深いので近くに屋敷があっても不思議ではない。そして鮒田には弁慶生誕の地という伝承まである。弁慶の産湯に使った湧き水や、産屋の跡という楠がある。
 一般に弁慶の生誕地は紀伊半島西側の田辺(現和歌山県田辺市)とされるが、田辺より熊野三山にはるかに近い鮒田に弁慶誕生説があるのは、鈴木氏ら熊野三山のエージェントが弁慶人気を利用して信仰を広めていった名残りだろう。

「判官びいき」の系譜/源 義経:第10回

 弁慶は平家を滅ぼすまでの義経の絶頂期はさほど目立った記述はないが、義経が落ち目になると無類の能力を発揮していく。弁慶こそ義経伝説のもう一人の主役といっても過言ではない。
 最初の見せ場は西国落ちの場面だ。頼朝に追われる身となった義経は、西国に逃れようと摂津の大物浜(だいもつはま)(現在の兵庫県尼崎市)から船出する。
 史実では船が難破して失敗するが、能「船弁慶(ふなべんけい)」では船が海上に出るとにわかに嵐となり、壇ノ浦で海中に没した平家の武将たちの怨霊(おんりょう)が現れる。清盛の四男・知盛(とももり)の怨霊は薙刀(なぎなた)で義経に斬りかかるが、弁慶の懸命の調伏(ちょうぶく)でついに退散する。

 そして最大の見せ場は、逃避行の際の安宅の関(現在の石川県小松市)での振る舞いである。能「安宅」、歌舞伎「勧進帳」に脚色され、今に至るも人気が高い。
 山伏に身をやつした義経一行をいぶかった関守の富樫左衛門が「本物の山伏なら勧進帳があるはず」と迫る。弁慶は持ってもいない勧進帳の代わりに白紙の巻物を取り出し、文章をでっちあげ弁舌爽(さわ)やかに読み上げる。
 いったんはそれに得心した富樫だったが、さらに義経の姿を見とがめると、弁慶は「たびたび迷惑をかける奴だ」と杖(つえ)で義経を打擲(ちょうちゃく)する。
 これらの弁慶の機知と富樫の情けで一行は窮地を脱するのだった。

山大学術研究院教授

山本 陽史(やまもと はるふみ)

和歌山市出身。山大学術研究院教授、東大生産技術研究所リサーチ・フェロー、日本世間学会代表幹事。専攻は日本文学・文化論。著書に「山東京伝」「江戸見立本の研究」「東北から見える日本」「なせば成る! 探究学習」など多数。米沢市在住。

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