源 義経:第9回
鈴木がつなぐ羽黒と熊野
義経や弁慶らは山伏に変装して日本海を北に落ち延びた。「義経記(ぎけいき)」ではその際、直江津(新潟県上越市)までは事情を聞かれたら「羽黒山伏が熊野に参詣した帰り」と答え、直江津を過ぎたら「熊野山伏が羽黒山に参詣に行く途中」と答えようと申し合わせている。
むろん物語としての設定だが、出羽三山と熊野三山がそれぞれ東西の修験道の代表的拠点で、両者には往来があった実態をうかがわせる。
熊野は私の郷里の紀州和歌山南部の呼び名で、弁慶の生誕地と言われている。熊野と東北を取り持っていたのは「鈴木」姓を持つ集団だった。
NHK「日本人のおなまえ」で知られる姓氏研究家の森岡浩氏の「日本名字家系大事典」によれば、山形に多い名字のランキングは佐藤、高橋、鈴木、斎藤、伊藤の順である。鈴木は福島でも2位、宮城3位、秋田は5位と隣県でも上位だ。
実は鈴木姓は熊野が発祥とされ、もともと熊野三山の衆徒や神官を務めた一族であった。
現在、和歌山県北部の海南市にある藤白神社に全国の鈴木氏の総本家とされる「鈴木屋敷」が残る(老朽化で現在は復元工事中)。
藤白神社は古代に盛んだった京都の皇族・貴族が熊野三山に参詣する道沿いにあり、参詣道に99カ所設けられた熊野の末社「王子」の一つである。鈴木一族が熊野から勢力を広げていく過程で藤白に拠点を置いたのだろう。
一族から出た鈴木三郎重家は、平泉に逃れた義経とともに討ち死にしたとされる。さらに藤白には、義経が幼少期に鈴木屋敷をたびたび訪れたという伝承も残っている。
鈴木氏は熊野信仰を広めるため全国に足を延ばし、東北各地にも定住した。鈴木氏のルーツが弁慶の故郷でもあること、義経と縁があることは東北での布教に効果的だったはずだ。
「日本三熊野」の一つ南陽市宮内の熊野大社、寒河江市の平塩熊野(ひらしおくまの)神社をはじめ、東北各地に熊野の名を冠した神社が多数ある。このことと鈴木姓の広がりは関連があるだろう。
本紙の読者にも鈴木さんが多数いることと思うが、ご先祖に関する言い伝えがあればお教えいただければありがたい。
山大学術研究院教授
山本 陽史(やまもと はるふみ)
和歌山市出身。山大学術研究院教授、東大生産技術研究所リサーチ・フェロー、日本世間学会代表幹事。専攻は日本文学・文化論。著書に「山東京伝」「江戸見立本の研究」「東北から見える日本」「なせば成る! 探究学習」など多数。米沢市在住。