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悲運の提督/「判官びいき」の系譜

源 義経:第11回

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義経出羽を経て義経一行は

 義経一行は新庄市と最上町の境界にある亀割山(かめわりやま)を経て出羽から陸奥に入り、平泉へ逃れていった。一行のその後の足跡をたどってみよう。

 時代は飛ぶが、松尾芭蕉は元禄2年(1689年)の「奥の細道」の旅で平泉を訪問したあと、一関・岩出山(いわでやま、現・宮城県大崎市)に宿泊し、鳴子温泉、尿前(しとまえ)を経由して出羽国に入っていった。義経のルートとは逆方向である。
 そもそも芭蕉のみちのくの旅は義経の足跡をたどる目的があった。実は元禄2年は義経の没後500年にあたっていた。
 陸奥国側の伊達藩と出羽国側の新庄藩の境には双方の番所が設けられていた。ちなみに、公式には江戸幕府が置いたものだけを「関所」と称し、藩が置いたものはお上をはばかって番所と称していたのである。

「判官びいき」の系譜/源 義経:第11回

 「尿前の関」と芭蕉が「奥の細道」に記すのは伊達藩側の番所である。ここは交通・防衛の要地で、芭蕉は出国のための手形を用意しておらず、通過するのに苦労した。
 一般に関所の厳しさを「入鉄砲(いりでっぽう)に出女」と言った。これはご存じの通り、鉄砲の江戸への持ち込みと、江戸在住の諸大名の妻女が幕府支配地外に出ることを厳しく取り締まったことに由来するが、男の旅人でも藩の機密情報を持っているかもしれないので出国は厳しくチェックされた。

 さて、この尿前という意味深な地名も例によって義経伝説と結びつけられている。一行はようやく国境を通過して藤原氏の支配地域に入ることができたため、北の方は安堵するあまり人前にもかかわらず放尿したという。それが尿前の名の由来だというのである。
 ちなみに、放尿したのは北の方ではなく、彼女が産んだ赤子の亀若丸という異説もある。
 さらに鳴子の由来は、ここまで産声をあげなかった亀若丸がここに到って初めて大きな産声をあげたからだという。赤子なりに雰囲気を察して気を使っていたのだろうか。鳴子を古い時代には「啼子(なきこ)」と表記したという説もある。

 このような地名の語源説に加え、亀若丸をあやすために弁慶がつくった木の人形が鳴子名産のこけしの始まり、という起源説まである。

山大学術研究院教授

山本 陽史(やまもと はるふみ)

和歌山市出身。山大学術研究院教授、東大生産技術研究所リサーチ・フェロー、日本世間学会代表幹事。専攻は日本文学・文化論。著書に「山東京伝」「江戸見立本の研究」「東北から見える日本」「なせば成る! 探究学習」など多数。米沢市在住。

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