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悲運の提督/「判官びいき」の系譜

源 義経:第12回

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平泉入りを果たす義経

 義経(よしつね)の一代記「義経記(ぎけいき)」によると、平泉入りを前にした義経一行は栗原寺(りつげんじ)(宮城県栗原市)にいったん入った。
 当時の栗原寺は藤原氏の滅亡とともに滅んだとされていて、現在の寺はその跡地とされる場所に再興されたものである。西北に名峰栗駒山を望み、ここから平泉までは直線距離で25キロほどの距離にある。

「判官びいき」の系譜/源 義経:第12回

 義経は栗原寺から従者の亀井六郎と伊勢三郎を、到着がまもないことを知らせる使いとして平泉の藤原秀衡のもとに走らせた。知らせを受けた秀衡は、子の泰衡に150騎の供を付けて迎えに行かせた。出産したばかりの北の方のために輿も持たせた。
 平泉に迎えてからは義経たちをまずは「月見殿」と呼ばれる特別な館に住まわせ、警備の武士を常時仕えさせた。北の方には12名の女房を付けたほか、多くの者に身の回りの世話をさせた。
 義経には馬や弓など多くの武具を与えたほか、領地も多く与えた。さらには新たに御所を造営して連日のように酒宴を催し、数々の遊興を尽くした。

 落日の義経であったが、かつて少年時代の義経を庇護し、武士として成長させたよしみもあったのだろうか、秀衡は義経を破格ともいえる待遇でもてなした。
 そこには別の意図があったとも考えられる。それは「鎌倉殿」源頼朝に対抗するためであった。以下秀衡の心中を忖度してみよう。
   
 全国を平定しつつある頼朝が、奥州をも勢力下に置こうとしていることは確実だ。もしも義経を殺してその首を鎌倉に差し出せば、いっときは藤原氏の奥州支配の継続は許されるかもしれない。だがそれは長続きはせず、いずれは鎌倉との決戦が避けられないだろう。そうであれば信頼関係で結ばれ、平家討伐で証明された天賦(てんぷ)の軍才を持ち、源氏の正統でもある義経を押し立てて奥州の守りを固めるのが藤原氏の生き残りのための良策だろう。

 これらが秀衡の考えだったと私は想像する。栄華を極める藤原氏を後ろ盾にすれば義経の未来は明るい。
 だが秀衡の突然の死によって運命は暗転していくのである。

山大学術研究院教授

山本 陽史(やまもと はるふみ)

和歌山市出身。山大学術研究院教授、東大生産技術研究所リサーチ・フェロー、日本世間学会代表幹事。専攻は日本文学・文化論。著書に「山東京伝」「江戸見立本の研究」「東北から見える日本」「なせば成る! 探究学習」など多数。米沢市在住。

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