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悲運の提督/「判官びいき」の系譜

源 義経:第13回

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平泉・毛越寺の四方山話

 私が平泉の毛越寺(もうつうじ)を初めて訪れたのは今から35年ほど前になる。
 当時、中尊寺は知っていたが、毛越寺に関する予備知識は皆無で、恥ずかしながら寺の名も読めなかったほどである。
 だが境内に入り大泉が池を中心とする華麗な庭園を目にし、その壮麗さにすっかり圧倒された。奥州藤原氏のかつての栄華のほどが偲ばれた。

「判官びいき」の系譜/源 義経:第13回

 毛越寺は9世紀半ばに嘉祥寺(かしょうじ)として創建された。開基は山寺立石寺や中尊寺も開いた天台宗の慈覚大師円仁と伝わる。12世紀に藤原氏が整備して大伽藍(だいがらん)となった。
 そもそも毛越寺という名前の由来は何だろうか。円仁が山中で霧に迷い、地面に落ちている白鹿の毛をたどっていくとこの地に至ったという縁起が伝わる。山を「越」えている時に鹿の「毛」に導かれたので「毛越」と名付けられたということになる。
 また、寺のあたりの地名が毛越(けごし)であったというシンプルだが有力な説もある。

 だが歴史学者の五味文彦氏は著書「源義経」でそれは順序が逆だと主張する。「毛」「越」は奥州藤原氏の勢力圏であって、それを寺の名としたというのだ。
 古代、北関東は「毛野(けの)」、北陸地方は「越(こし)」と呼ばれ、すべてではないが藤原氏の支配地域が広がっていた。私はこの説を支持する。
 ちなみに古代の国名は都への道筋の遠近で「上下」や「前中後」を冠して付けられた。「上毛野(かみつけの)」(現群馬県)、「越後」(現新潟県)などがそのあらわれである。

 源頼朝は鎌倉を始め南関東地方を拠点としていた。奥州藤原氏は鎌倉方にとって北方の脅威であり、頼朝は義経が鎌倉に参じるまでは何度も京に攻め上るのを躊躇(ちゅうちょ)していた。鎌倉を不在にしたすきに藤原氏から背後を突かれ、南関東を攻略されることを恐れていたのである。
 頼朝にとって奥州藤原氏はいずれは除かなければならないやっかいな存在であった。そこに都合よく義経が逃げ込んでくれた。このことは鎌倉方に奥州に攻め込む格好の口実を与えた。
 そして平泉到着後ほどなく庇護者の藤原秀衡がこの世を去る。義経の命運はいよいよ尽きようとしていた。

山大学術研究院教授

山本 陽史(やまもと はるふみ)

和歌山市出身。山大学術研究院教授、東大生産技術研究所リサーチ・フェロー、日本世間学会代表幹事。専攻は日本文学・文化論。著書に「山東京伝」「江戸見立本の研究」「東北から見える日本」「なせば成る! 探究学習」など多数。米沢市在住。

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