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悲運の提督/「判官びいき」の系譜

源 義経:第14回

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義経の最期と藤原氏の滅亡

 最大の庇護者だった藤原秀衡(ひでひら)が亡くなった時、義経は自分の命運が尽きたと嘆いたと伝わる。実際、義経の進退は窮まっていった。
 文治5年(1189年)閏4月30日、秀衡の子で家督を継いだ泰衡(やすひら)は数百騎の軍勢で義経らのいた衣川(ころもがわ)の館を攻める。義経は北の方と子どもとともに自害。数え年で31歳の若さであった。
 一方、弁慶は義経たちが自害する時間を稼ごうと奮戦して討たれた。実際のところは不明だが、大長刀(なぎなた)を杖にして立ったまま死んだ「弁慶の立ち往生」として知られる。

「判官びいき」の系譜/源 義経:第14回

 泰衡は義経の首を鎌倉に届け、恭順の意を示そうとしたのだが、頼朝は藤原氏を滅ぼす意志を固めていた。同年7月19日、自ら指揮を執って奥州に兵を進めた。鎌倉側で言う「奥州征伐」、公平に言えば「文治5年奥州合戦」が始まった。
 迎え撃つ奥州軍は大本営を国分原鞭楯(こくぶがはらむちだて)(現仙台市榴ヶ岡)に置き、鼠ヶ関(ねずがせき)にも軍を派遣した。
 8月、石那坂(いしなざか)(現福島市内)・阿津賀志山(あつかしやま)(現福島県国見町の厚樫山(あつかしやま))で両軍は激突した。鎌倉方はこの戦で義経の従者だった佐藤継信・忠信兄弟の父・佐藤庄司や泰衡の兄国衡(くにひら)を破り、泰衡を追って平泉に向かった。泰衡は平泉の館に火を放って逃亡した。

 歴史書「吾妻鏡(あづまかがみ)」によれば、泰衡は頼朝にあて書状を送ったとされる。
 その旨は「自分は追討される覚えはない。義経を討った功績で御家人にして欲しい。それがかなわないなら、せめて死罪から罪一等を減じて遠流にして欲しい。もし許されるなら比内郡(現秋田県大館市)のあたりに置いて頂きたい」というものだった。だが頼朝が泰衡の助命嘆願を受け入れるはずもなく、平泉へ、そしてさらに北へと進軍していった。
 泰衡は夷狄島(いてきのしま)(北海道)に逃れようとしたが、9月3日、比内郡贄柵(にえのさく)で数代の郎党であった河田次郎に裏切られ、殺害された。ここに奥州藤原氏は滅亡し、鎌倉方の本州全体の軍事的支配が完成した。

 奥州の人びとは長らく忍従の年月を強いられることになった。その無念の思いも、義経は平泉では死なずに北へ向かった、という一連の伝説が生まれる素地となったのだろう。

山大学術研究院教授

山本 陽史(やまもと はるふみ)

和歌山市出身。山大学術研究院教授、東大生産技術研究所リサーチ・フェロー、日本世間学会代表幹事。専攻は日本文学・文化論。著書に「山東京伝」「江戸見立本の研究」「東北から見える日本」「なせば成る! 探究学習」など多数。米沢市在住。

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