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悲運の提督/「判官びいき」の系譜

源 義経:第15回

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今も根強い「北行伝説」

 義経は平泉では死なず、奥州をさらに北に向かって落ち延びていったという説、いわゆる「義経北行伝説」がある。
 英雄が戦死や非業の死を遂げた場合、実際には死なずに遠くに落ち延びていったという伝説がいくつかあり、その代表的なものである。

「判官びいき」の系譜/源 義経:第15回

 義経以外では、戦国武将の武田勝頼や明智光秀は土佐国(現高知県)に逃れたという説がある。坂本龍馬は光秀の子孫というおまけも付いている。また西郷隆盛は大陸に亡命してロシア軍の訓練にあたったという説がある。これは1891年(明治24年)の「大津事件」の原因ではないかと言われている。
 大津事件とは、来日したロシア皇太子を護衛の巡査・津田三蔵が襲った事件だが、津田は西南戦争で政府軍として闘い勲章をもらった。ところが皇太子に陪従(ばいじゅう)して来日していた西郷が、敵方(政府軍)の勲章を剥奪(はくだつ)するという風評があり、それを信じて犯行に及んだのではないかというのだ。
 真偽はともかく、英雄に生き延びてほしいという人びとの願望はいつの世にもある。
     
 義経生存説がいつごろ成立したかは定かではないが、水戸藩主・徳川光圀(みつくに)(水戸黄門)の命で編まれた「大日本史」には、義経が蝦夷(えぞ)に渡る説が紹介されている。また江戸後期に来日したドイツ人医師シーボルトが帰国後に著した日本の紹介書「NIPPON」に、義経がジンギスカンになったという説が記されている。義経生存説は江戸時代にはすでにささやかれていたと思われる。
     
 では俗伝で義経は東北からどういうコースをたどったと言われているのだろうか。
 岩手県宮古生まれの義経研究家・佐々木勝三氏は半生をかけて各地に残る義経ゆかりの地を訪ね、戦後その成果を次々発表した。佐々木氏や、郡山生まれで福島中央テレビの社長や会長を歴任した今泉正顕氏の研究によれば、有力なのは次のルートだ。
 平泉から逃れて水沢、江刺と北上、東の山中に分け入って遠野を経由し、三陸海岸に出て宮古から八戸へと北上。南部から津軽へ西に向かって津軽半島北端に至り、海路で蝦夷に渡ったというものである。

山大学術研究院教授

山本 陽史(やまもと はるふみ)

和歌山市出身。山大学術研究院教授、東大生産技術研究所リサーチ・フェロー、日本世間学会代表幹事。専攻は日本文学・文化論。著書に「山東京伝」「江戸見立本の研究」「東北から見える日本」「なせば成る! 探究学習」など多数。米沢市在住。

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