源 義経:第16回
各地に残る北行の足跡(そくせき)
先日、この連載を愛読されているという方から「判官」の読みは「はんがん」か「ほうがん」か、どちらが正しいのかと質問された。一般的には「はんがん」だが、義経の場合「ほうがん」と読むのが〝読み癖〟だとご説明した。
ところで「判官」とはだろう。古代の律令制度では官庁の幹部を4段階に分けた。長官を「かみ」、次官は「すけ」、3番目が「じょう」、4番目を「さかん」と呼んだ(官庁により様々な漢字を当てた)。
義経は宮中警備担当の衛門府(えもんふ)の「尉(じょう)」で、都の治安担当の検非違使(けびいし)を兼ねた。この立場の人をとくに判官と呼んだ。日本では人の本名を呼ぶのは恐れ多く、婉曲に役職名で呼ぶ習慣があるので判官と言えば義経を指すようになった。
脱線ついでに、これら職階や役所名は日本人の名付けに影響を与えた。「すけ」の漢字表記「助」「輔」「祐」が典型例である。私の祖父の名には「丞(じょう)」が入っていた。勇ましいイメージの武官系の官庁名「衛門」「兵衛」も盛んに使われた。
さて、義経北行伝説に戻ろう。東北北部には義経が平泉から蝦夷に落ち延びる途中に立ち寄ったとする言い伝えが各地に残っている。
例えば、三陸の大槌湾(おおつちわん)に注ぐ鵜住居川(うのすまいがわ)沿いの岩手県釜石市橋野町には義経を祀(まつ)った「中村判官堂」がある。現地で一行を泊めた八幡家が建立したと伝えられる。大槌湾の室浜(むろはま)漁港近くにはやはり義経を泊めた山崎家が建てたという「法冠(ほうがん)神社」がある。
北方の宮古市津軽石には「判官神社」がある。このほか三陸には義経の家臣が定着したとされる場所もいくつかある。
興味深いのは岩手県田野畑村の「畠山神社」である。NHKの大河ドラマ「鎌倉殿の13人」にも登場した鎌倉幕府の重臣・畠山重忠が義経討伐のため東北に遠征した際、ここまで来たときに愛馬が脚を折って倒れてしまった。その馬の鐙(あぶみ)を供えた場所が神社の起こりという。
この縁で田野畑は重忠の生誕地である埼玉県深谷市と友好都市になっている。
山大学術研究院教授
山本 陽史(やまもと はるふみ)
和歌山市出身。山大学術研究院教授、東大生産技術研究所リサーチ・フェロー、日本世間学会代表幹事。専攻は日本文学・文化論。著書に「山東京伝」「江戸見立本の研究」「東北から見える日本」「なせば成る! 探究学習」など多数。米沢市在住。