山形コミュニティ新聞WEB版

悲運の提督/「判官びいき」の系譜

源 義経:第17回

Share!

蝦夷目指すも津軽で足止め

 青森県には義経伝説ゆかりの場所が随所にある。紙幅の関係上、すべてを挙げることは無理だが、一部を紹介しよう。

 伝説によれば、義経一行は岩手の宮古から三陸沿岸を舟で北上し、種差(たねさし)海岸(青森県八戸市)に上陸したという。高館(たかだち)山(同)にしばらく逗留し、近くの小田(こだ)八幡宮(同)に京都から持ってきた毘沙門天像(びしゃもんてんぞう)と写経を奉納したとされる。
 JR本八戸駅近くの三八城(みやぎ)神社(同)には現在も「弁慶石」と呼ばれる大きな石が残されている。人間の足型のようなへこみがあり、弁慶が岩に印した足型だという。
 また、おがみ神社(同)には当地で亡くなったと伝わる北の方の手鏡が所蔵されている。
 一行はさらに蝦夷地(北海道)に渡ろうと津軽半島に向けて北上する。青森市の貴船(きふね)神社には、義経を追ってきた浄瑠璃姫(じょうるりひめ)が亡くなり、その墓とされる祠(ほこら)がある。

「判官びいき」の系譜/源 義経:第17回

 津軽半島の龍飛崎(たっぴざき)には、現在は外ヶ浜町の一部になっているが、かつて三厩(みんまや)という村があった。伝説では三厩という地名のいわれも義経に関係があるとされる。
 伝説によれば、蝦夷地に渡ろうとした義経一行だったが、海峡はシケ続きでなかなか渡海できない。そこで義経は持ち歩いていた観音像を龍飛崎近くの海岸にあった大石の上に置き、三日三晩祈り続けたという。すると大石にあった三つの洞穴から三頭の龍馬(卓越した能力を持った馬)があらわれた。一行はそれに乗って無事に蝦夷地に渡ることができたと伝わっている。
 この大石を厩石(まやいし)、三つの洞穴を厩(うまや)になぞらえて「三厩」と呼んだ。そしてこの一帯を三厩と呼ぶようになったというのが地名の語源説である。

 それからほぼ500年後の江戸前期、諸国を回って仏像を刻んでいた僧円空がここで観音像を発見した。そこで流木で仏像を刻んでその胎内に観音像を納めて祀ったという。
 この像は厩石近くの高台にあるその名も「龍馬山義経寺」に現在も保存されている。
 付近の海上には岩場を無事通過できるよう義経が海神に捧げた兜(かぶと)が化したとされる「甲岩(かぶといわ)」もある。

山大学術研究院教授

山本 陽史(やまもと はるふみ)

和歌山市出身。山大学術研究院教授、東大生産技術研究所リサーチ・フェロー、日本世間学会代表幹事。専攻は日本文学・文化論。著書に「山東京伝」「江戸見立本の研究」「東北から見える日本」「なせば成る! 探究学習」など多数。米沢市在住。

記事閲覧ランキング

  • 24時間
  • 週間