源 義経:第18回
蝦夷地で神になった?
蝦夷地(えぞち・今の北海道)に義経が渡ったという説は江戸時代には広く知られていた。
例えば、弘化3年(1846年)に出版された歌川芳虎(うたがわよしとら)の筆による浮世絵「義経蝦夷渡之図(えぞわたりのず)」には、次のような文章が余白に記されている。
「義経は藤原泰衡の謀反で高館(たかだち)で敗れ、主従は船で蝦夷に渡った。蝦夷の人びとは義経を敬って王とした。のち『義経(ぎけい)大明神』として敬った」
つまり義経が蝦夷島を支配し、さらには人々の信仰の対象にまでなるほど尊敬を集めたというのである。
アイヌの創世神話では「オキクルミ」神が民族の祖とされる。ところがこの神が実は義経のことであるという説まで唱えられた。そこまではさすがに荒唐無稽(こうとうむけい)だが、江戸中期に活躍した儒学者、新井白石の編著書「蝦夷志」にもこの説が紹介されている。
つい最近、勤務先の山形大のゼミで18世紀末の寛政の改革のころに書かれた「黄表紙(きびょうし)」を取り上げた。黄表紙は私の本来の専門で、絵の余白にストーリーとセリフが書き込まれた今の漫画に似た絵本で、内容は源平合戦と江戸の太平の世の中をまぜこぜにしたパロディである。
結末は平家を滅ぼした源義経が静御前とともに蝦夷地に渡り、大明神に崇められて2人で幸せな余生を送ったという大団円で終わる。このような大衆小説の題材になっていることからも、義経渡海伝説が広く行き渡っていたことがわかる。
江戸後期の社会情勢も義経渡海伝説への関心を高めた理由である。このころ帝政ロシアが千島や蝦夷地に南下しようとしていた。長崎留学中にその動きを知った仙台藩士で経世家(今で言う評論家)の林子平は、「海国兵談」を自費出版してロシアの脅威と海防の強化を説いた。
幕府は林を国策に容喙(ようかい)し、世を惑わしたとして蟄居(ちっきょ)処分としたが、この事件も契機になって官民挙げて蝦夷地への関心が高まった。
蝦夷地が日本と密接不可分だとロシアに納得させる必要もあった。
その一環で義経渡海伝説がクローズアップされ、蝦夷と日本のつながりを強調することにも利用されたのである。
山大学術研究院教授
山本 陽史(やまもと はるふみ)
和歌山市出身。山大学術研究院教授、東大生産技術研究所リサーチ・フェロー、日本世間学会代表幹事。専攻は日本文学・文化論。著書に「山東京伝」「江戸見立本の研究」「東北から見える日本」「なせば成る! 探究学習」など多数。米沢市在住。