山形コミュニティ新聞WEB版

悲運の提督/「判官びいき」の系譜

源 義経:第19回

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渡海伝説は御伽草子にも

 義経が平泉を逃れ、海を渡って蝦夷に入ったという渡海伝説は、古くは室町時代の御伽草子(おとぎそうし)「御曹子島渡(おんぞうししまわたり)」に見られる。概説を紹介しよう。

 青年時代、京の鞍馬(くらま)から奥州平泉に下った牛若丸(義経)は藤原秀衡(ひでひら)のもとに身を寄せていた。秀衡は義経に、蝦夷の大王が持つ兵法の秘伝書「虎の巻」を手に入れるよう勧める。
 そこで義経は大王と会うことを決意し、舟に乗って蝦夷へ向かう。途中、島民すべてが裸の「裸島」、すべてが異様に背の高い「背高島」、女性だけの「女護(にょうご)の島」などを巡り蝦夷に至る。
 大王は義経に自分に勝てば娘のあさひ姫と結婚させようと約束し、さまざまな武術や囲碁の勝負を挑むが、義経が勝ち姫と結婚する。大王の留守に義経は巻物を盗み出し、無事平泉に戻る。

 この島巡りの展開は「ガリバー旅行記」に似ている。英雄が各地を遍歴し、試練を乗り越え成長する「貴種流離譚(きしゅりゅうりたん)」という物語の型が古今東西存在する。神話「大国主命」「日本武尊(やまとたけるのみこと)」や「竹取物語」、「シンデレラ」「みにくいアヒルの子」などで、「御曹子島渡」もこの型に属する。
 この物語は青年時代の義経の蝦夷渡海だが、江戸時代になると没落後に蝦夷で起死回生し、支配者になるという成功物語が登場する。さらには義経が中国大陸に渡り、帝国の創始者になるという壮大な方向に向かう。 
 よく知られているのはモンゴル帝国の祖ジンギスカンとなったという説だが、その後の清朝は義経の子孫が樹立したという説まで登場する。
 義経は清和源氏(9世紀中ごろの清和天皇を源流とする氏族)なので、子孫が建国の際に国号を「清」としたというのだが、さすがにここまでは信じ難い。

 幕末に長崎に滞在して日本の医学に大きな影響を与えたシーボルトは、日本地図を国外に持ち出そうとしたかどで国外追放になった。帰欧後、大著「日本」を書いた。そのオランダ通詞の吉雄忠次郎(よしお ちゅうじろう)が熱心に義経ジンギスカン説を唱えていたと紹介している。
 ちなみに吉雄はこの事件に連座して米沢に流されて没した。そのため墓は米沢にある。

山大学術研究院教授

山本 陽史(やまもと はるふみ)

和歌山市出身。山大学術研究院教授、東大生産技術研究所リサーチ・フェロー、日本世間学会代表幹事。専攻は日本文学・文化論。著書に「山東京伝」「江戸見立本の研究」「東北から見える日本」「なせば成る! 探究学習」など多数。米沢市在住。

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