山形コミュニティ新聞WEB版

悲運の提督/「判官びいき」の系譜

最上 義光:第2回

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活況を呈していた義光祭

 最上義光に対する後世の評価の移り変わりは、最上義光歴史館ホームページの「片桐繁雄執筆資料集」や東北学院大の竹井英文准教授の編著になる「最上義光」にわかりやすく記されている。

「判官びいき」の系譜/最上 義光:第2回

 かつて山形市では「義光祭(ぎこうさい)」という顕彰行事が行われていた。山形藩はたびたび大名が交替したが、幕末の藩主水野氏が山形城内に設けた「義光社」の慰霊行事が発展したものだという。
 特に義光の300回忌に当たる大正2年(1913年)の義光祭は盛大で、10月17日から3日間にわたり、法要に加えて提灯行列、山形城跡に駐屯(ちゅうとん)していた陸軍霞城連隊による模擬戦、仮装行列が行われたほか、墓の修理や義光を主人公にした演劇の上演など多様な行事が行われたという。
 翌年発行された記念誌には「山形中興」「グレート・マン」と義光を讃える表現が並び、こんにち山形市が東北を代表する都市として発展したのも彼の行った事跡が元になったとする。

 その当時、欧州列強のアジア進出、中国の辛亥革命(しんがいかくめい)、日韓併合など日本周辺の情勢が緊迫していた。記念誌が発行されたのはまさに第1次世界大戦が始まった年である。
 いわば世界規模で「戦国時代」が始まろうとしていたわけで、そんな時代を反映して戦国を生き抜いた義光の武将としての功績が高く評価されたのだろう。

 ところが、第2次大戦の敗戦後、この風向きは大きく変わっていく。
 太平洋戦争中に中止されていた義光祭は、敗戦後の昭和22年(1947年)に復活するが、翌年は主催者側の中からを開催に疑問の声が出た。
 議論の中で「義光の歴史的評価」と「仮装行列の非文化、低級さ」などが指摘され、結局中止されることになった。日本を破滅の淵に追いやった軍国主義への反省と連合軍占領下の民主主義礼賛の空気の中で、戦前とは一転する義光評価が出てきたのである。
 義光の評価はその時々の時代の風潮に大きく左右されていることがわかる。そして故・片桐氏によると、決定的な変化が起きたのは昭和40年代で、きっかけとなったのが「山形市史」であるという。

山大学術研究院教授

山本 陽史(やまもと はるふみ)

和歌山市出身。山大学術研究院教授、東大生産技術研究所リサーチ・フェロー、日本世間学会代表幹事。専攻は日本文学・文化論。著書に「山東京伝」「江戸見立本の研究」「東北から見える日本」「なせば成る! 探究学習」など多数。米沢市在住。

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