山形コミュニティ新聞WEB版

悲運の提督/「判官びいき」の系譜

最上 義光:第3回

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人物像ゆがめた山形市史

 1970年代に刊行された「山形市史」は自治体が編纂(へんさん)する公的な地域史である。
 その中で最上義光に対して〝強引にして不遜(ふそん)な態度〟〝残忍とも言える態度〟といった表現が使われていることを、義光研究の第一人者である故片桐繁雄氏が指摘している。武勇ばかりか〝謀略(ぼうりゃく)〟にも長じていたとか、豊臣秀吉や徳川家康に対して〝追従(ついしょう)外交〟を行ったという記述もある。

「判官びいき」の系譜/最上 義光:第3回

 この影響を受けたのか、昭和52年(1977年)に山形城址(じょうし)に義光像を建立する計画が出た時、地元の文化人の間から猛烈な反対が起きた。
 「血で血を洗う武力闘争と、権謀術数でもって地域を制覇した最上義光のような人物の銅像を、平和都市山形の市民憩(いこ)いの場に建てるとはなにごとか」(最上義光歴史館HPより)というのが反対派の主張だった。結局、建立は実現して像は現存しているが、なんとも厳しい人物評である。

 市史という公的な書物に否定的とも受け取れる義光評価が掲載された影響は大きい。地元にとどまらず、全国に情報が発信されることになったからである。歴史関係者も自治体が公認した評価だと受け取るだろうし、随時参照されて広まっていった可能性が高い。
 悪役のイメージを全国に定着させた感のあるNHK大河ドラマ「独眼竜政宗」の制作・放送前に市史は刊行されている。片桐氏も「制作の際の人物造形にも影響を与えたはず」と述懐している。
 だが、このような厳しい義光評は果たして公平な評価だと言えるだろうか?他の戦国大名と比べて義光が取り立てて批判されるべき振る舞いをしたのだろうか?私にはそうは思えない。
 権力者の秀吉や家康に追従したとしても、それは多くの戦国大名が生き残るために取った戦略のひとつにすぎない。       
 最上家は義光から数えて3代で改易されてしまい、江戸時代を通して大名家が何度も交替した山形藩では最上家に関する資料が乏しかった。
 大名の交替がなかった米沢、鶴岡、新庄などの各藩と異なり、いわれのない批判が行われても歯止めが掛けられない状況だったのだろう。

山大学術研究院教授

山本 陽史(やまもと はるふみ)

和歌山市出身。山大学術研究院教授、東大生産技術研究所リサーチ・フェロー、日本世間学会代表幹事。専攻は日本文学・文化論。著書に「山東京伝」「江戸見立本の研究」「東北から見える日本」「なせば成る! 探究学習」など多数。米沢市在住。

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