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悲運の提督/「判官びいき」の系譜

最上 義光:第4回

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義光と父・義守の「父子内訌」とは

 今回から義光の生涯をたどりつつ、「悪名」を着せられるに至った事跡を取り上げ、その詳細を検討していきたい。

「判官びいき」の系譜/最上 義光:第4回

 義光の生誕は天文15年(1546年)で、父は最上義守である。最上氏は清和源氏の流れを汲む斯波兼頼(しば かねより)が14世紀半ばに「羽州探題」となって山形に入り、最上氏を称したのが始まりとされる。
 羽州探題とは出羽国(現在の山形県と秋田県)の室町幕府の統治機関である。
 義守と義光親子は不仲で、二度にわたって「父子内訌(ないこう)」を起こしている。内訌とは仲たがいのことだ。
 一度目は家督相続を巡ってである。義守が長男の義光よりも弟の義時を偏愛し、最上家を継がせようとしたため争いが生じ、義光が義時を殺してしまったという。
 だが歴史学者の伊藤清郎山形大名誉教授の著書「最上義光」では、これは大正時代に生み出された作り話だとする。
 そもそも義時が実在したことを証明する資料はほとんどない。義守が義光への相続を渋ったのは事実のようだが、その具体的な内容が不明なため、あるいは義時という人物が造形されて説明に使われた可能性はある。

 もっとも、父子のいさかいは戦国武将の家では珍しいことではない。例えば武田信玄は家臣団の信頼をなくした父信虎を追放して武田家を継承した。最上家とゆかりが深い伊達家では、稙宗(たねむね・政宗の曾祖父)とその子晴宗、晴宗とその子輝宗がそれぞれ父子内訌を起こしている。ちなみに政宗その人も弟小次郎を殺害したと考えられている。
 徳川家康は長男の信康を死に追いやった。豊臣秀吉もいったんは後継に指名した甥の秀次に死を賜り、秀次に嫁いでいた義光の娘の駒姫も連座して斬首された。

 話を本筋に戻そう。仮に義時が実在して義光が殺害したのが事実だったとしても、それをもって義光がとりたてて残忍な性格であったとか、父を父と思わぬ親不孝者だと決めつけることはできないと私は考える。
 それにしても、義光の汚名をそそぐために戦国武将の例をいくつか挙げてみたが、正直いってあまり気持ちのいい作業ではないものだ。

山大学術研究院教授

山本 陽史(やまもと はるふみ)

和歌山市出身。山大学術研究院教授、東大生産技術研究所リサーチ・フェロー、日本世間学会代表幹事。専攻は日本文学・文化論。著書に「山東京伝」「江戸見立本の研究」「東北から見える日本」「なせば成る! 探究学習」など多数。米沢市在住。

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