山形コミュニティ新聞WEB版

悲運の提督/「判官びいき」の系譜

最上 義光:第5回

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「最上の乱」の原因は義光か?

 最上家の継承を巡る父・義守と嫡男・義光の対立は、重臣の氏家氏の仲裁でひとまず決着し、元亀元年(1570年)に義光が家督を継ぐ。義光は数えで25歳、義守は中野(現在の山形市中野)に隠居した。
 だが義守と義光の関係は修復されず、ついには天正2年(1574年)、義守は義光を倒そうと世に言う「最上の乱」を起こす。
 かつてこの乱は義光と弟の義時との抗争とされてきたが、実際は親子の対立だったことが近年になって明らかになった。また前回指摘したように、そもそも義時が実在したかも疑わしい。

「判官びいき」の系譜/最上 義光:第5回

 この乱が起きた事情を「山形市史」では次のように記している。〈家督を継いだ義光は一族や家臣の諸将への統制を強め、領国化を進めていったが、それに反抗する家臣たちが一斉に蜂起し、〝義光の強引にして不遜な態度〟に義守も怒って父子対立が再燃した〉
 最上氏を支える家臣たちは、それぞれが自分たちの領地を持ついわゆる国人である。領国化とは、家臣たちからそれぞれの領地の統治権を取り上げ、主君である最上家が直接治める体制に移行していくことであろう。
 そのような方針に家臣たちが反感を持つのは当然のことである。そして批判勢力が義光に批判的な先代の義守のもとに集結したのであろう。この点は十分納得できる。
 だが〈義光の〝不遜な態度〟が義守を怒らせた〉という書きぶりはいかがなものか。そもそも2人は家督相続の前からソリが合わなかったのであって、あらためて再燃するわけでもあるまい。このような描写・表現は書き手の「悪意」が感じられてならない。

 歴史学者の伊藤清郎氏は次のように指摘する。〈義守は家臣らの自立性を尊重した〝緩やかな連合〟を良しと考えていた。それに対し、義光は権力の集中を目指した。この内紛は権力のあり方の方向性を巡っての対立ではなかったか〉
 納得である。現代風に言えば、地方分権か中央集権かという2つの路線の対立である。群雄割拠から天下統一に向かう戦国期には日本各地で起きていたのである。
 義光の不徳のために最上家に起きた特異な現象とは決して言えまい。

山大学術研究院教授

山本 陽史(やまもと はるふみ)

和歌山市出身。山大学術研究院教授、東大生産技術研究所リサーチ・フェロー、日本世間学会代表幹事。専攻は日本文学・文化論。著書に「山東京伝」「江戸見立本の研究」「東北から見える日本」「なせば成る! 探究学習」など多数。米沢市在住。

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