山形コミュニティ新聞WEB版

悲運の提督/「判官びいき」の系譜

最上 義光:第6回

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白鳥謀殺は非難に値するのか?

 義光と父義守との2度目の内訌(ないこう)は天正2年(1574年)に起こった。
 この争いには義守の娘で義光の姉・義姫の嫁ぎ先、伊達輝宗も居城の米沢から出陣して義光方と合戦に及んでいる。ただ輝宗は結局は義光と和睦し、その後は父子の間に入って和睦を勧めた。 
 この時、もう一人仲介役となったのは白鳥十郎長久であった。長久は小田島荘白鳥郷(現村山市内)に拠点を持ち、谷地城の主でもあった。
 和睦の結果、義光は最上家の実権を掌握し、家中でも自分に対立した武将たちを次々に攻め滅ぼす一方、他家とも戦いを繰り返し領地を広げ、権力基盤を強めていった。

「判官びいき」の系譜/最上 義光:第6回

 天正12年、義光は長久を殺害する。伝説では以下のようである。
 〈義光は重病で死の淵にあると偽り、長久を山形城の義光の寝所まで呼び寄せ、枕頭の長久に後事を託すという趣旨の話をしていた。ところが床の下に隠していた小太刀を突然取り出し、一刀のもとに長久を斬殺した。そして義光は谷地城を攻めて落城させ、白鳥氏の所領の大半を最上氏の直轄領とした〉
 山形城跡に「血染めの桜」と呼ばれた桜木が20世紀半ばまで現存していた。長久が斬られた際に飛び散った血を受けた木であるとの伝承が残る。
 このエピソードは、義光の残虐非道さを示す格好の証拠として語られることが多い。血染めの桜の伝説には疑問があるが、長久を何らかの方法で謀殺したことはほぼ事実であろう。

 だが近年では、長久殺害は織田信長の命だったことが明らかになっている。当時、旭日昇天の勢いだった信長に全国の武将はこぞってなびき、長久も鷹と馬を贈って自分を最上の主であると認めてもらおうとした。それが偽りであることを知らせた義光に信長は長久追討を命じたのである。
 この謀殺の方法が卑怯だという見方もあろうが、より多くの血が流れる合戦ではなく、知謀を用いて速やかにことをし遂げた手口は、戦国の価値観に照らせばさほど非難されることではなかったはずである。
 「白鳥長久」という美しくめでたい名を持った武将が非業の死を遂げたことへの人々の同情が、義光を悪役として際立たせることになったのかもしれない。

山大学術研究院教授

山本 陽史(やまもと はるふみ)

和歌山市出身。山大学術研究院教授、東大生産技術研究所リサーチ・フェロー、日本世間学会代表幹事。専攻は日本文学・文化論。著書に「山東京伝」「江戸見立本の研究」「東北から見える日本」「なせば成る! 探究学習」など多数。米沢市在住。

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