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編集長インタビュー

山形県食糧(上山市)社長 尾形 幸広さん

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尾形 幸広(おがた・ゆきひろ)1954年(昭和29年)山形市生まれ。市立1小、3中、山形南高から東京経済大経営学部に進み、卒業後に帰郷して市内の会計事務所で9年間勤務。88年に山形県食糧に転じ、同年に同社が米カリフォルニアで立ち上げた米粉製造工場に財務担当役員として出向。5年後に本社に戻り、5年間営業課長として働いた後、蔵王の森工場(上山市)工場長就任。2010年、同社が新潟市に設立した米粉工場の工場長も兼任。取締役を経て19年から社長。69歳。

事業再生に不退転の決意で
 出てきた新しい芽に手応えも

――県食糧といえば「特定米穀」でしたね。

特定米穀でスタート

 「戦時中、米を配給するために全国に置かれた食糧営団が弊社のルーツです。戦後に営団が解散、主食を県食糧事業協同組合(県食連)が、特定米穀を県食糧が扱うことになったわけですね」
 「特定米穀は粒が小さく、主食には向かないとされる米で、米菓や味噌、さらにはビールや焼酎の原料になります」
 「用途的には米粉と同じで、米価が高かった時代は安い海外で米粉を製造し、砂糖などと混ぜて『調製品』の形で輸入するビジネスが全国で盛んに行われていました」
――御社も米国で。
 「私が入社したのも『財務が分かる日本人が現地で必要』ということで。最初の5年間で工場を軌道に乗せましたが、新食糧法が施行された1995年以降は日米の価格差が縮小し、正直、赤字操業でした」

苦渋の決断も

 「2010年に設立した新潟の米粉工場も、制度の変更や需要の低迷などで3年で赤字に。こうした負の遺産を処理するため、3年前に米国と新潟の工場を閉鎖し、特定米穀事業からは完全に撤退しました」
――知らなかった…。
 「根幹の事業だっただけに迷いもありましたが、やらないことを決めないとやることが決まらない。同じ理由で昨年、山形市今塚にあった酒米工場も閉鎖しました。設備の老朽化と需要低迷が背景で、不採算部門は切り捨て、身軽になって再出発しようと」

直近は回復軌道に

――大変な決断をされたんですね。
 「事業再生に向け、文字通り不退転の決意で取り組んでいます」
――でも決算書を見ると、確かに前期は酒米工場の損失計上で赤字ですが、それを除けばここ数年はほぼ増収増益で。
 「米価が上がったことが最大の要因ですかね。でも弊社の主食米がふるさと納税の返礼品に使われたり、西アフリカ向けの食糧援助が伸びていたりと、新しい事業の芽が出始めていることに手応えも感じています」
――これから力を入れていくのは?

新事業に注力

 「米粉の製造からは撤退しましたが、米粉の卸事業は続けていて、グループ会社の城北麺工(山形市)さん向けが好調なんですよ。城北さん、米粉を使ったトッポギが絶好調のようで」
 「あとは山形大発のベンチャー、アルファテック(米沢市)とタイアップして、アルファ化米粉の市場拡大にも取り組んでいく計画です」
――事業再生、陰ながら応援していきます。

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