山形コミュニティ新聞WEB版

編集長インタビュー

ナック(山形市) 社長 鍋倉 淳さん

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鍋倉 淳(なべくら・あつし) 1952年(昭和27年)山辺町生まれ。日大山形高卒業後、父親が創業した機械商社の鍋倉機工へ。87年、ドイツ製編み機専門の商社として山形市でナックを立ち上げ、社長に。2001年から外食業界に参入、現在は山形市の荒楯町と江俣でトンカツ・カツ丼専門店「かつや」、南四番町で定食店「南四番町食堂」、飯田西と仙台市で高齢者専門弁当「宅配クックワン・ツゥ・スリー」を手がける。65歳。

必然の選択で外食参入
 基本は人材の定着を図ること

――来し方を振り返っていただくと。

ニット編み機で創業

  「中学からバスケット一筋で高校も推薦で入りましたが、2年の時に膝と腰を悪くしてバスケを断念、大学進学も諦め、当時は忙しかった家業を手伝うことにしました」
 「家業は当初は農機具などを製造、その後に山辺でニット製造が盛んになってきたためニット編み機を扱うようになりました。国内外のメーカーから仕入れ、それを地元のニット屋さんに販売するという仕事ですね」
 「このうち海外メーカー品は割高でなかなか売れなかった。それで父から『お前が独立してやってみろ』と言われ創業。当初はいい時期もありましたが、輸入品に押され国内ニット産業が苦境に陥ったため、2001年に外食に参入しました」

会社存続のため外食へ

 「なにも隣の芝生が青く見えたわけではなく、編み機を納入した顧客に対してはメンテナンスを全うする責任があります。それには会社が存続しなければならず、いわば必然の選択でした」
――編み機は今でも?
 「今でも頑張っているニット屋さんはいるので、何とか続けてます」
――外食、やってみてどうでしたか?
 「最初は戸惑いの連続。素人なのでフランチャイズ(FC)で始めましたが、基本ノウハウは教えてくれるものの、その後の運営は当然ながら自己責任。人が突然辞めたり、思わぬロスが発生したりで、何度やめようと思ったか(苦笑)」

苦労も虚仮の一念で

――最初が荒楯の「かつや」で、次が「南四番町食堂」でしたよね。
 「今でこそ『かつや』は400店近くありますが、当時は20店ぐらいしかなく、本部の体制もあまり…。それで『南四番町食堂』をFCで始めましたが、本部が大阪だったので、当初は味付けやメニューなどが受け入れられませんでしたね」
 「でも〝虚仮の一念〟じゃないけど、続けていくうちに何となく商売のやり方が分かってきて、売上げも軌道に乗るようになった。カギは人の定着を図ること。人材を大事にしないと外食は成り立たないと思います」
――今後の展開は? 

社会貢献につなげたい

 「経験をいかして食を通じた社会貢献です。高齢者専門弁当のFC店も手がけていますが、今後は個別対応の弁当や、配達時の安否確認にも力を入れていきたい」
 「全国をまわっていて他にもやってみたい業態はたくさんありますが、外食を始めたのが49の時。もう10年早く始めていたらと思いますね」
――ボクも48から始めて、同じ思いですね。

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