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悲運の提督/「判官びいき」の系譜

「判官びいき」の系譜/最上 義光:第14回

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「北の関ヶ原」長谷堂合戦

 慶長5年(1600年)9月8日、上杉軍は置賜と庄内から最上領への侵攻を開始した。主力隊は直江兼続(なおえ かねつぐ)を総大将とする2万の大軍であった。他に別働隊も置賜と庄内から侵攻する。
 本隊は米沢から荒砥(あらと)、さらに白鷹丘陵を越えて最上領に侵入、最上軍500が守る畑谷城(はたやじょう)(現山辺町内)に迫った。
 畑谷城主・江口五兵衛光清(えぐち ごひょうえ あききよ)は義光から山形城への撤収を勧められていたが肯(がえ)んじず、死を覚悟して上杉軍を迎え撃った。義光が山形城から援軍を送るも間に合わず、12日からの上杉軍の攻撃で13日に落城し、江口はじめ将兵は全滅した。畑谷城を抜いた上杉軍は次に長谷堂城に向かった。

 長谷堂城は5000の兵で守りを固めたが、上杉軍の方が数において勝る。長谷堂城を抜かれると最上家の本拠山形城に危機が迫る。義光は山形城から援軍を送った。さらに嫡男の義康を伊達政宗のもとに派遣、援軍を求めた。

 実は畑谷城に上杉軍が押し寄せる直前にも義光は政宗に援軍を求めているが、この時は政宗は動かなかった。義光と政宗は不仲だったが、政宗の母・保春院(ほしゅんいん)は義光の妹で、この時に山形城にいた彼女も援軍を頼むよう兄に勧めたのだろう。

 上杉側は本陣を長谷堂城の1.2キロ北西の菅沢山に置き、15日には城に総攻撃をかけたが、城から出て戦った兵たちに義光が送った援軍が横合いから加わり、何とか押し戻した。世に言う「北の関ヶ原」、長谷堂合戦の始まりである。

 援軍を頼まれた伊達側では、政宗の側近の片倉小十郎が派兵に反対した。片倉はこの機会に義光の滅亡を待ったのち、上杉軍の疲れに乗じて兼続も破って出羽国を手中にすべきだと主張した。
 だが政宗は母と家康のためとして、叔父の留守政景(るす まさかげ)率いる1200の軍勢派遣を決めた。
 政宗としては上杉軍の主力を山形に釘付けにすることで上杉が支配する旧領の伊達郡(現福島県内)、あわよくば米沢も奪還する機会を狙っていたのであろう。また西にいる家康の去就を見極める必要もあった。
 長谷堂合戦の裏では戦国の雄たちの思惑が入り乱れていたのである。

山大学術研究院教授

山本 陽史(やまもと はるふみ)

和歌山市出身。山大学術研究院教授、東大生産技術研究所リサーチ・フェロー、日本世間学会代表幹事。専攻は日本文学・文化論。著書に「山東京伝」「江戸見立本の研究」「東北から見える日本」「なせば成る! 探究学習」など多数。米沢市在住。

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