悲運の提督/「判官びいき」の系譜
最上 義光:第12回
もう一つの関ヶ原
秀吉は慶長3年(1598年)に没した。秀吉は死に臨み、自身の没後は家康や前田利家ら五大老と石田三成ら五奉行に子の秀頼を盛り立てていくよう求めた。有力大名の合議による集団指導体制ということであろう。
だが秀吉が没した翌年、秀頼の後見人の前田利家が亡くなると、家康が急速に実権を握るようになる。
家康の振る舞いに反発した上杉景勝は国元に帰ってしまう。上杉家は当時、秀吉によって越後から会津に国替えとなり、重臣の直江兼続が治める米沢も含め120万石の大大名になっていた。景勝と兼続は領内に複数の城を築くなど軍備を固めていく。