山形コミュニティ新聞WEB版

悲運の提督/「判官びいき」の系譜

「判官びいき」の系譜/最上 義光:第15回

Share!

奮闘、兼続を押し戻す

 伊達政宗が派遣した留守政景(るす まさかげ)率いる援軍は、9月22日には笹谷峠を越えて山形に入り、現在の山形市小白川町付近に駐屯した。援軍の存在はまことに心強く、最上軍の士気は高まったであろう。
 24日に上杉軍は長谷堂城に総攻撃を仕掛けてきた。これに伊達の援軍も加わった最上軍は必死に抵抗、守り切った。

 直江兼続としては、最上義光との決戦の場は山形城であり、長谷堂城は優位な兵力があるからあっさり落とせると考えていたはずだ。ところが15日に続く2度の総攻撃にもかかわらず長谷堂城を抜くことができなかった。大きな誤算である。
 29日の3度目の総攻撃も、大将クラスの上泉泰綱(かみいずみ やすつな)が戦死するなど最上軍の激しい抵抗を受け、決着を付けることはできなかった。
 事ここに至って兼続は主君・上杉景勝の出馬を仰ぐことも考えた模様だが、30日に関ヶ原での西軍の敗北、つまり家康の勝利の確報を受け取ったとみられる。そこで翌10月1日に撤退を開始した。義光にもこの情報は届いており、上杉軍を追撃することになった。

 古今東西、戦闘の中では撤退戦が最も難しいとされ、下手をすれば壊滅的な打撃を被ることになる。特に最後尾の「殿(しんがり)」の隊は危険であったが、この時は兼続自身や前田慶次らが殿をつとめて奮戦した。
 兼続や慶次は鉄砲隊を巧みに駆使して追撃をしのぎ、最上軍に兵3000人余りを討ち取られるも、多くの兵を米沢に戻すことができたのは最上軍側にしてみれば「敵ながらあっぱれ」と言うべきであろう。
 山形市の「最上義光歴史館」にある義光の兜には弾痕(だんこん)とみられる跡があり、この撤退戦で銃撃を受けたものとされる。

 関ヶ原の帰趨(きすう)が長谷堂合戦を突然終わらせたとはいえ、半月の攻防戦を守り切った最上軍は大きな賞賛に値する。
 相手は「軍神」とも称される謙信ゆかりの上杉軍。その上杉軍の指揮を名将とされる兼続が執り、圧倒的な兵力で押し寄せてきたのだから。
 しかもこの時、庄内地方も上杉の支配から取り戻した。武将としての最上義光の実力を遺憾なく示したものと言えよう。

山大学術研究院教授

山本 陽史(やまもと はるふみ)

和歌山市出身。山大学術研究院教授、東大生産技術研究所リサーチ・フェロー、日本世間学会代表幹事。専攻は日本文学・文化論。著書に「山東京伝」「江戸見立本の研究」「東北から見える日本」「なせば成る! 探究学習」など多数。米沢市在住。

記事閲覧ランキング

  • 24時間
  • 週間