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悲運の提督/「判官びいき」の系譜

「判官びいき」の系譜/最上 義光:第16回

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対秀吉観と戦後処理

 大阪城がある大阪で豊臣秀吉は「太閤さん」として親しまれている。貧しい農家の生まれから身を起こし、天下人となった出世物語は大阪では人口に膾炙(かいしゃ)している。

 母が大阪生まれの私も幼少時から秀吉には親しみを感じていた。唯一の汚点として、茶人・千利休に死を賜ったことを残念に思う程度であった。
 だが研究者になり、朝鮮出兵や甥(おい)の秀次の妻妾や子を大量処刑した「聚楽第事件」などを知るにつけ、秀吉の晩年の振る舞いに容認しがたいものを感じるようになった。
 いずれも客観的に見て権力の維持には必要なく、恨みを買うだけの行為でしかなかったのではないか。

 藤沢周平のエッセイに「信長ぎらい」というのがある。若いころは織田信長びいきだったが、小説家になって信長のことを調べてみて評価が180度変わったという。比叡山の焼き討ちなど、度を超した信長の残酷さに受け入れがたいものを感じたと記している。
 私も今では「秀吉ぎらい」ともいうべき気分にとらわれていて、聚楽第事件で秀吉に妻子の命を奪われた義光には大いに同情するところがある。

 慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いは東軍・徳川家康側の勝利で終わり、義光は置賜を除く現在の山形県域と秋田県南部をあわせ57万石と、62万石の伊達政宗とともに全国屈指の大大名に成長した。
 彼らが上杉の軍勢を出羽に釘付けにして西への進軍をさせなかったことが東軍の勝利に貢献したとして評価されたのであろう。

 ただ、戦国の荒々しさ冷めやらず、武断政治が横行していた江戸初期、安定した藩政を行うことは至難の業であった。藩主の相続を巡り、独立の気風が強い家臣団も巻き込んで「お家騒動」が勃発した例は少なくない。
 伊達家も山本周五郎の「樅(もみ)ノ木は残った」に描かれた「伊達騒動」を寛文年間(1661~73年)に起こしている。だが伊達家は領地替えもなく、廃藩置県まで存続することができた。
 ところが最上家は義光が亡くなって8年後の元和8年(1622年)に改易され、山形の支配者ではなくなってしまう。

山大学術研究院教授

山本 陽史(やまもと はるふみ)

和歌山市出身。山大学術研究院教授、東大生産技術研究所リサーチ・フェロー、日本世間学会代表幹事。専攻は日本文学・文化論。著書に「山東京伝」「江戸見立本の研究」「東北から見える日本」「なせば成る! 探究学習」など多数。米沢市在住。

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