最上 義光:第8回
奥羽仕置きで所領安堵を得る
天正18年(1590年)に小田原攻めを終えた豊臣秀吉はさらに北上して宇都宮に至り、そこで奥羽諸大名の領地の再配置、いわゆる「奥羽仕置き」を行った。
遅参しながらも小田原攻めに加わった最上家と伊達家は幸い所領を安堵(あんど)された。だが旧主が改易(かいえき)されたり、有力者が武装解除された各地では一揆(いっき)が続々と起きた。
伊達政宗は、改易された大崎氏・葛西氏旧領の一揆を鎮圧するよう秀吉から命を受けたが、一揆勢との内通が疑われた。弁明の結果、疑いは晴れたが、伊達氏が本拠地の米沢周辺の旧領を奪われた大きな理由はこの一件にある。
一方、最上義光は秀吉が宇都宮から会津黒川城(会津若松城の前身)に移った同日、妻子を伴って現地に出向き、秀吉に謁見(えっけん)した。その場で妻子とともに上洛する命を受け、翌年正月には京都に滞在している。
その際、従五位下となり「侍従(じじゅう)」の官職を得た。秀吉が朝廷の最高職である「関白」に就いたため、従う大名もそれぞれ公家となることによって序列を示したのが豊臣政権の特徴である。
さらに秀吉の姓(朝廷での公的な氏の称)の「豊臣」、名字(私的な家名)の「羽柴」を使うことも許された。
最上家の京屋敷は秀吉の邸宅の聚楽第(じゅらくてい)と内裏を結ぶ中立売通(なかだちうりどおり)に面していたとされる。ちなみに近所には政宗や上杉景勝の屋敷もあった。政治の中心地に大名が屋敷を構えて妻子を住まわせるのは人質の意味があり、江戸幕府も踏襲(とうしゅう)している。
秀吉はほどなく甥(おい)の秀次に関白職を譲って聚楽第を明け渡し、自らは京都南郊で建てた伏見城を隠居所に定めた。秀次が失脚して聚楽第が破却されると、政権の中心は伏見に移る。
今度は伏見城周辺に大名が集住するようになった。伏見でも伊達家と最上家は隣接していた。現在最上家の屋敷跡とされるところは「桃山最上町」の地名が付いている。伊達政宗の屋敷跡とされる場所には「桃山町正宗」という地名が残っている。
このように義光はすっかり豊臣政権に組み込まれていった。だがこのことが逆に後になって義光を悩ませ、悲劇が最上家を襲うことになる。
山大学術研究院教授
山本 陽史(やまもと はるふみ)
和歌山市出身。山大学術研究院教授、東大生産技術研究所リサーチ・フェロー、日本世間学会代表幹事。専攻は日本文学・文化論。著書に「山東京伝」「江戸見立本の研究」「東北から見える日本」「なせば成る! 探究学習」など多数。米沢市在住。