最上 義光:第9回
文禄の役、名護屋で陣を張る
日本統一を果たした豊臣秀吉は朝鮮と中国を征服しようと、いわゆる「唐入(からい)り」を目指す。荒唐無稽(こうとうむけい)な計画だが、天下人として独裁色を強めていく秀吉を周囲の誰も制止できなかった。
大陸に渡る拠点として諸大名に命じて肥前名護屋(現在の佐賀県唐津市)に巨大な城郭を建設し、諸国の大名と将兵を集めた。
秀吉は朝鮮国王に「征明嚮導(せいみんきょうどう)」を命じようとした。中国(明)を攻める際には朝鮮に先導役をさせようというのである。
対馬を拠点とする宗氏がその交渉を担うが、秀吉の非現実的な要求をそのまま伝えることは憚(はばか)られるため、要求を「仮途入明(かとにゅうみん)」、つまり〝明を攻める際は日本軍を通過させよ〟とトーンダウンして交渉した。だがこれも当然のことながら朝鮮に拒否される。
激怒した秀吉はまず朝鮮を占領する方針に変更する。天正20年(1592年)4月、第1軍が釜山に上陸した。「文禄の役」の始まりである。5月には漢城(現在のソウル)、6月には平壌をまたたく間に占領する。北方に逃れた朝鮮国王は明に援軍を求めた。
破竹の勢いで半島深く攻め入った日本軍だが、その結果、補給線が延びきってしまう。朝鮮民衆のゲリラ的抵抗も激しくなり、日本軍は分断され各地で孤立していく。
さらに名将・李舜臣(り しゅんしん)率いる朝鮮海軍との海戦に敗れ、制海権も失ってしまう。和平交渉も進まず戦争は長期化していく。
軍紀を保つために秀吉は諸将の行動を監視する軍目付(いくさめつけ)を派遣し、臆病な振る舞いがあれば厳しく処断した。例えば豊後(現在の大分県)の大名・大友吉統は、明の大軍と戦いを避け、退却したために改易されている。
さて、伊達政宗や上杉景勝は半島で戦ったが、最上義光は渡海せず、名護屋の本営に待機していた。当初の勢いから義光は短期で戦は終わり、秋ごろには山形に帰れるだろうと楽観していたが、日本軍の苦戦は名護屋にも伝わり、危機感を深めていく。
ちなみに、この原稿は8月15日の「終戦の日」に書いている。82年前に始まった太平洋戦争も緒戦の快進撃の後に反転攻勢にさらされていった過程は、この時と似ていると感じている。
山大学術研究院教授
山本 陽史(やまもと はるふみ)
和歌山市出身。山大学術研究院教授、東大生産技術研究所リサーチ・フェロー、日本世間学会代表幹事。専攻は日本文学・文化論。著書に「山東京伝」「江戸見立本の研究」「東北から見える日本」「なせば成る! 探究学習」など多数。米沢市在住。