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悲運の提督/「判官びいき」の系譜

吉良上野介:第11回

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世間は赤穂浪士に快哉

 このテーマでの連載も大詰めに入った。今回と次回で討ち入りと世間の反応、その後の吉良・上杉両家のことについて触れておこう。

 1664年(寛文4年)、後継者を定めず米沢藩3代藩主・上杉綱勝が急死した。この場合、藩は本来なら取り潰しになるが、綱勝の妹・富子と結婚していた吉良上野介の長男の三郎を後継者とし(4代藩主綱憲)、藩の存続が許された。
 吉良家を継ぐべき男子が上杉家に入ったため、綱憲の次男の義周(よしちか)が吉良家の後継になった。上野介は刃傷事件の後に隠居したので、その後は義周が吉良家の当主だった。
 富子の輿入れや義周の養子縁組に伴い、お付きの家臣たちも米沢から吉良家に入っていた。隠居した上野介が時折米沢藩邸に出向いて滞在することもあり、両家の関係は密接だった。赤穂浪士の動きは米沢藩も注意し、吉良家に加勢の武士も派遣していたはずである。

「判官びいき」の系譜/吉良上野介:第11回

 江戸の吉良邸の周囲には武家屋敷が複数あった。討ち入りの際事情を察して「武士は相身互(あいみたが)い」と屋敷内から高提灯(たかちょうちん)をいくつも掲げた。表だって応援はできないが、浪士たちが行動しやすいよう側面援助したのである。
 彼らはその後、幕府に対しても「討ち入りがあったとは気づかなかった」と〝しら〟を切り通している。 

 吉良邸の異変は江戸の米沢藩邸に伝わり、藩士の野本忠左衛門が駆けつけたが、浪士たちはすでに内匠頭の墓のある泉岳寺を目指していた。浪士たちは討ち入り後ほどなく上杉家から追っ手がくるだろうと考え、迎え打つ覚悟でいたが、一向にその気配がないため泉岳寺に向かったのだった。
 泉岳寺到着後、大勢の見物人が詰めかけて門前は大混雑した。

 病床にあった綱憲は事件を知って激怒し、浪士を残らず討ち果たすよう命じた。世間も上杉家が当然、浪士を成敗するだろうと期待したが、結果的に上杉家は動かなかったのである。
 世間は被害者である吉良家と事態を静観した上杉家に対して冷ややかな目を向け、一種のテロ集団とも言える赤穂浪士たちに拍手喝采した。
 理不尽のようであるが、それが世間というものである。

山大学術研究院教授

山本 陽史(やまもと はるふみ)

和歌山市出身。山大学術研究院教授、東大生産技術研究所リサーチ・フェロー、日本世間学会代表幹事。専攻は日本文学・文化論。著書に「山東京伝」「江戸見立本の研究」「東北から見える日本」「なせば成る! 探究学習」など多数。米沢市在住。

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