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悲運の提督/「判官びいき」の系譜

源 義経:第2回

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義経と米沢との接点は

 平家追討に向かう義経に奥州から従った忠臣、佐藤継信(つぐのぶ)・忠信(ただのぶ)兄弟の活躍と死は多くの演劇や小説の題材となった。

 兄の継信は屋島の戦いで義経の身代わりとして討ち死にした。弟の忠信は追われる義経の影武者として吉野山中などで奮戦したが、京都で襲われて自刃した。忠信は歌舞伎「義経千本桜」の主要な登場人物としても今に親しまれている。
 一般には兄弟を輩出した佐藤一族は福島の信夫(しのぶ)郡を支配していたとされる。福島市の医王寺に遺跡があるが、米沢にも佐藤兄弟ゆかりの寺院(常信庵)や兄弟が産湯(うぶ ゆ)を使ったという公園があることは前回にも触れた。
 なぜ米沢にそんな伝説が残っているのだろう?

「判官びいき」の系譜/源 義経:第2回

 平泉での義経の死と奥州藤原氏の滅亡は当時の東北の人びとに深い悲しみと喪失感をもたらした。平泉を中心に半ば独立していた東北がリーダーを失い、鎌倉幕府の支配下に入ってしまったからである。
 その後ほどなく、一連の悲話を語り伝える芸能者が多く出現した。小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)の怪談「耳なし芳一」に登場する盲目の琵琶法師たちは、平家の滅亡だけではなく、土地や時代によっては義経の物語も語った。尼の装いで鼓(つづみ)を伴奏に語り舞う女性たちもいた。
 彼ら、彼女らは東北各地を放浪しつつ、義経と彼にまつわる物語を広め、伝説として定着させていった。
 芸能者の中には土地の人びとに引き留められて定住した人びともいたはずである。私はその役割に注目している。
 芸能者たちは自分の持ちネタを定住した土地を舞台にした物語として再構成し、さまざまなエピソードを取り入れつつ発展させていったであろう。

 それらのうち、有力な一つが米沢を舞台にした物語である。米沢では、兄弟の母が二人の菩提を弔うため出家して「梅唇尼(ばいしんに)」と名乗り結んだ庵の跡が常信庵となったと伝わる。
 また「母が若いころ京都で義経の異父妹に仕えていた」「兄頼朝のいる鎌倉に向かう義経は途中米沢に立ち寄った」「失脚後、落ち延びる義経一行は会津を経由して米沢に入った」といった異説が残っている。

山大学術研究院教授

山本 陽史(やまもと はるふみ)

和歌山市出身。山大学術研究院教授、東大生産技術研究所リサーチ・フェロー、日本世間学会代表幹事。専攻は日本文学・文化論。著書に「山東京伝」「江戸見立本の研究」「東北から見える日本」「なせば成る! 探究学習」など多数。米沢市在住。

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