悲運の提督/連載を始めるに当たり 第1回 南雲 忠一

2021年7月23日
判官びいきの視点から

 私は昭和63年(1988年)に山形大学に着任した。翌年が芭蕉が元禄2年(1689年)にみちのくを旅してから300年にあたり、大規模な観光キャンペーンなどの準備が始まっていた。

悲運の提督/連載を始めるに当たり 第1回 南雲 忠一

 私の専攻は江戸時代の文学だったので「奥の細道」をテーマとした講演を行ったり文章を書く機会がかなりあった。それをきっかけに東北の地から「芭蕉はなぜみちのくに来たのだろうか」を問い続けるようになった。
 ヒントになる句は「奥の細道」にはいくつもあるが、ここでは2句取り上げよう。まず「夏草や兵どもが夢の跡」。平泉で滅ぼされた源義経や奥州藤原氏の人々をはじめ敗者たちへの哀惜の句だ。
 そして意外かもしれないが「荒海や佐渡に横たふ天の河」。「奥の細道」に句意の説明はないが、芭蕉が前書きを添えて書いた自筆の資料がいくつも残されている。
 それらの前書きには、佐渡島が黄金を産出するめでたい島であることや、古来多くの政治犯が流された地でもあることの悲しみが記されている。幕府の目に触れない自筆資料に芭蕉は本心を書き残したのである。そう、芭蕉は「判官びいき」だったのだ。

 本家である古代の義経をはじめ、東北には「判官びいき」したくなる人々の系譜が今に至るまで続いている。
 戦国・江戸初期の最上義光や上杉家、忠臣蔵の悪役にされた吉良上野介(子が上杉家を継承)、幕末の清河八郎、戊辰戦争の「賊軍」庄内藩、西南戦争の西郷隆盛(庄内びいきであった)等々。
 これから、歴史の中で陰の部分に追いやられた人々に光を当てていこうと思う。

 近代にもそんな人物はいる。その最たる存在は南雲忠一であろう。米沢出身者で、興譲館から戦前は日本最難関の学校であった海軍兵学校に進んだ。米沢出身者にはこのコースをたどって、薩摩(鹿児島)出身者に次いで幹部となった人が多いと言われる。
 日露戦争でロシアのバルチック艦隊の航路を対馬海峡と断定し、日本海海戦を大勝利に導いた山下源太郎、沈没したイギリス戦艦の乗組員を多数救助した工藤俊作など、いわゆる「米沢の海軍」と呼ばれる人脈に含まれる人物である。
 南雲は第1航空艦隊司令長官として昭和16年(1941年)に太平洋戦争開戦のハワイ真珠湾攻撃を指揮し、圧倒的な戦果を挙げた。この功績にもかかわらず、栄光の側面よりもその後のミッドウェー海戦の敗北、サイパン島での玉砕という悲劇の生涯がクローズアップされがちである。
 加えて山本五十六連合艦隊司令長官と比較される形で取り上げられるのが常で、その分、割りを食っていると感じる。あたかも清河八郎が坂本龍馬の引き立て役として小説や映画に登場する役回りに似ている。

 「判官びいき」は「えこひいき」ではない。勝者の視点で描かれがちな歴史の一面性をただし、真実とは何かを問い直す作業なのだ。しばらくお付き合いいただければありがたい。


悲運の提督/連載を始めるに当たり 第1回 南雲 忠一

山本 陽史
●(やまもと・はるふみ)和歌山市出身。山大学術研究院教授、東大生産技術研究所リサーチ・フェロー、日本世間学会代表幹事。専攻は日本文学・文化論。著書に「山東京伝」「江戸見立本の研究」「東北から見える日本」「なせば成る! 探究学習」など多数。米沢市在住。