悲運の提督/「判官びいき」の系譜 第2回 南雲 忠一

2021年8月13日
米沢市信夫町で生誕

 「判官びいき」の対象となる人物の条件は2つある。その人がたぐいまれな業績を挙げたこと、そしてそれにもかかわらず、不遇な生涯を送ったり、志半ばにして非業の死を遂げることである。

 米沢出身の海軍中将・南雲忠一は昭和16年(1941年)、ハワイ真珠湾攻撃を指揮し大戦果を収めた。だが翌年ミッドウェー海戦で大敗を喫し、19年にサイパン島で玉砕した。
 私は南雲の壮絶な人生に向きあう度に判官びいきの気持ちが湧き上がってくるのである。
 南雲の評伝は数多いが、ほとんどに“悲劇”か“悲運”という枕詞(まくらことば)が付くのが常である。日本は太平洋戦争に負けたのだから敗軍の将がたくさん出るのは止むを得ない。だが、その中で南雲ほどこの枕詞が冠される人物は少ない。他には山本五十六くらいではないか。
 日本海軍のことが論じられる時、もっとも多く議論の対象になるのがこの2人の思想や行動であろう。南雲は山本と何かにつけて比較されたり、確執があったか、なかったのかが取り沙汰され続けている。判官びいきの私としてはこの状況を何とかしたいのである。

 南雲は明治20年(1887年)、米沢市信夫(しのぶ)町の旧米沢藩士の南雲家で生まれた。西部小学校を卒業、藩校興譲館の流れを汲む旧制米沢中学校(現米沢興譲館高)に入学した。
 当時、米沢では優秀な若者は最難関の学府とされた海軍兵学校を目指す空気があった。南雲も明治38年に兵学校に進んだ(海兵36期)。卒業時の成績は196人中6番であった。
 海軍ではこの席次は艦船内でハンモックに記されたID番号を意味する「ハンモック・ナンバー」と呼ばれ、その後の出世に大きく影響した。席次1ケタ台の南雲は大将まで進む可能性が十分あった。

 卒業後、海軍砲術学校、続いて水雷学校、さらに海軍大学校などで学び、水雷(魚雷や機雷)の専門家と目されるようになった。大正6年(1917年)には初めて軍艦駆逐艦の艦長となり、海軍大学校の教官や数々の軍艦の艦長を経験し、順調に出世していく。


山本  陽史