《追想録》 荘内銀行 元頭取 町田 睿さん

秋田市出身。秋田高から東大法学部に進み、卒業後の62年に旧富士銀行入行。総合企画部長、常務を経て94年に荘内銀に入り、95年から13年頭取を務めた。
日経新聞記者として旧富士銀常務時代の町田さんを取材した広瀬和彦テレビ東京専務は「旧大蔵省との折衝を担うMOF担として存在感は群を抜いていた」と振り返る。頭取候補の1人にも目されていたという。
転じた当時の荘内銀は4行あった県内地銀中、あらゆる指標で最下位。直近2人の旧富士銀出身の頭取は、碌々(ろくろく)となすところなく過ごしたとされるが、町田さんは強烈なリーダーシップで立て直しに奔走、数年で同行をトップの山形銀行に次ぐ地位に押し上げる。
99年には旧殖産銀行と合併で合意、山形に〝左遷〟された時に期したであろう「再編を主導し、全国トップクラスの地銀にする」という夢が一歩踏み出したかにみえた。
この合併は結果的には幻に終わる。以後、旧山形しあわせ銀行を加えた他3行は「反荘内」で結束、町田さんの長い雌伏期間が続く。県内で合併は100%不可能、県外に秋波を送っても応じるところはなかった。
「規模は追わず」と公言しながらも、内実は虎視眈々と合併を模索していたはずの町田さんは、ボクには見果てぬ夢を追い続けて旅を続けるドンキホーテのようにも映り、その美学の行方を見届けたかった。
その時は2008年に訪れた。秋田市の北都銀行と経営統合で合意、町田さんのジグソーパズルの最後のピースが埋まった瞬間だった。立場も忘れ、ボクは心で快哉(かいさい)を叫んだ。
バンカーとしても、人間としても畏敬する人だった。
(本紙編集人、吉村哲郎)