~やまがた~藩主の墓標/(30)評価割れる綱憲の治世

2015年10月9日
 米沢藩主・上杉綱勝が寛文4年(1664年)に後継者を決めずに急死した際、上杉の家名存続に奔走したのは3代将軍家光の異母弟で、会津23万石の太守・保科正之(ほしなまさゆき)だった。

 綱勝の正室は正之の長女・媛姫(はるひめ)。不幸にして媛姫は5年前に19歳で早世していたが、正之は亡き娘と婿のために幕閣を説いて回り、当時は御法度(ごはっと)だった末期養子(まつごようし)を仲介したのである。
 白羽の矢が立ったのが高家筆頭(こうけひっとう)・吉良上野介義央(きらこうずけのすけよしひさ)の長男で、わずか1歳の三之助。母親は義央に嫁いだ綱勝の妹・富子で、この三之助が米沢藩4代藩主・綱憲(つなのり)となる。

~やまがた~藩主の墓標/(30)評価割れる綱憲の治世

 かろうじて家名断絶の危機は逃れた上杉家だったが、15万石を没収され、米沢藩は半分の15万石だけになった。幕府としては咎(とが)めもなしに末期養子を認めるわけにはいかなかったのだ。
 会津120万石の往時に比べ石高は8分の1に。それでも家臣の数は変わらない。貧窮(ひんきゅう)する米沢藩に追い打ちをかけたのが新藩主・綱憲の奢侈(しゃし)だったというのが従来の定説だ。

 綱憲は最近になり再評価の機運も出ているが、定説に従えば綱憲は諸事派手好きで、参勤交代の行列を華美にし、江戸から能役者を呼んで1回の興行に千両を費やしたほか、城の増改築や社寺の新築に惜しげもなく金を使ったとされる。 
 跡継ぎがなくなった吉良家には自身の2男・義周(ちかよし)を養嗣子(ようしし)に。二重の縁で結ばれた吉良家には6千両の借金の肩代わり、焼失した吉良邸の新築費用の捻出(ねんしゅつ)のほか、毎年6千石の支援を続けた。

 実は米沢藩には表向きの石高とは別に、越後以来蓄えていた「御囲金(おんかこいきん)」と呼ばれる20万両もの軍用金があったが、それを蕩尽(とうじん)したのが綱憲というのが定説だ。 
 ただ最近では一連の綱憲の治世は上杉家の安泰を図り、家名を高める狙いがあったためという見方もあるようだ。

 とまれ、赤穂浪士(あこうろうし)の仇討(あだうち)事件が起きた時、救援に駆けつけなかった米沢藩を「腰抜け」と嘲笑する江戸っ子はいたが、藩内で吉良家に同情する人はいなかったという。

加藤 貞仁