やまがた 藩主の墓標

脈々と息づく山形の歴史
2016年12月23日
 戊辰戦争(ぼしんせんそう)後の明治元年(1868年)12月、庄内藩11代藩主・酒井忠篤(さかい ただずみ)は謹慎し、家督を弟の忠宝(ただみち)に譲って家名存続を許されたが、17万石から12万石に減封(げんぽう)されたうえに、現在の福島県内へ転封(てんぽう)を命じられた。
2016年12月9日
 慶応4年(1868年)の戊辰戦争(ぼしんせんそう)で庄内藩は朝敵とされたが、その理由は判然としない。
2016年11月25日
 庄内藩14万石の第7代藩主・酒井忠徳(さかい ただあり)は文化2年(1805年)に隠居、家督を16歳の嫡子・忠器(ただかた)に譲った。忠器治世の天保11年(1840年)、庄内藩を揺るがす大事件が降りかかった。
2016年11月11日
 庄内藩2代藩主、酒井忠当(ただまさ)は万治3年(1660年)44歳で没し、嫡男忠義(ただよし)が3代藩主となった。忠義は祖父忠勝(ただかつ)に殺された人々の怨霊(おんりょう)を恐れるあまり精神を病んだらしく、37歳で死去した。
2016年10月28日
 庄内藩の初代藩主・酒井忠勝(さかい ただかつ)は、徳川家康の四天王の1人、忠次(ただつぐ)の孫である。酒井氏は徳川氏の同族であり、譜代大名の中でも筆頭とされた。
2016年10月14日
 庄内地方は「関ヶ原」の後、最上氏の山形藩領となるまで目まぐるしく統治者が交代した。
2016年9月23日
 出羽松山藩3代藩主・酒井忠休(さかい ただよし)は天明7年(1787年)74歳で没し、2男・忠崇(ただたか)が家督を継いだ。忠崇には嗣子(しし)がなく、庄内藩主の酒井家から忠禮(ただのり)を養子に迎え5代とした。6代は忠禮の長男忠方(ただみち)。その長男で7代藩主となった忠良(ただよし)の治世に戊辰戦争が勃発(ぼっぱつ)する。
2016年9月9日
 正保4年(1647年)に庄内藩2代藩主となった酒井忠当(さかい ただまさ)は、父忠勝の遺言によって2人の弟にそれぞれ領地を分与して支藩を創設した。
 江戸時代初期、嗣子(しし)を定めず藩主が死去したために取り潰された大名は数多かった。支藩創設には、本家が消滅しても家名を残す意図があった。
2016年8月26日
 最上氏改易後の元和8年(1622年)、幕府は信州松代藩10万石の酒井忠勝(さかい ただかつ)に3万8000石を加増して庄内藩主とし、忠勝の弟・直次(なおつぐ)にも左沢(あてらざわ)で1万2000石を与え大名に取り立てた。
 周辺の有力外様大名に備えるため、最上氏の遺領に譜代大名を配置した政策の一端である。
2016年8月12日
 徳川幕府が開闢(かいびゃく)して間もないころの21年間だけ、旧櫛引(くしびき)町丸岡(現鶴岡市)に1万石の小藩があった。藩主は熊本藩52万石の太守で、現在も熊本では「清正公(せいしょうこう)」として親しまれている加藤清正(かとう きよまさ)の嗣子(しし)・忠広(ただひろ)だ。
2016年7月22日
 慶応4年(1868年)7月4日、秋田藩が突然、奥羽列藩同盟を離脱した。新庄藩は直ちに仙台、山形、上山の諸藩とともに秋田との藩境に出兵、庄内征討軍の襲来に備えた。
2016年6月24日
 新庄藩3代藩主・戸沢正庸(とざわ まさつね)は76歳の長寿だったが、4代正勝(まさよし)は24歳、5代正諶(まさのぶ)は44歳、6代正産(まさただ)は20歳、7代正良(まさすけ)は24歳、8代正親(まさちか)は39歳で没するなど、短命な藩主が続いた。
2016年6月10日
 新庄藩(移封後に加増され6万8200石)の初代藩主・戸沢政盛(とざわ まさもり)が、実子正誠(まさのぶ)を差し置いて鳥居忠政(とりい ただまさ)(山形藩22万石)の次男・定盛(さだもり)を養嗣子(ようしし)とし、定盛が34歳で死ぬとその娘に婿(むこ)として迎えようとしたのは鳥居家を通じ徳川家との絆を強くしようとしたからだが、それは戸沢氏の直系が断絶することを意味する。
2016年5月27日
 後に新庄藩主となる戸沢氏は、もとは岩手県雫石(しずくいし)あたりを本拠にしていた豪族だった。それが勢力を拡大する南部氏に追われて奥羽山脈を越え、秋田県角館(かくのだて)に落ち着いてから、戦国大名の一端に加わるようになる。
2016年4月22日
 長瀞(ながとろ)藩1万1千石の初代藩主、米津通政(よねきつ みちまさ)は文政2年(1819年)に70歳で死去し、長男の政懿(まさよし)が家督を継いだ。
2016年4月8日
 武蔵(むさし)の久喜(くき・埼玉県久喜市)を本拠に下総(しもうさ)、上総(かずさ)、常陸(ひたち)などで1万1千石を領有していた米津通政(よねきつ みちまさ)が寛政10年(1798年)、武蔵の6千4百石を出羽国村山郡に移され、長瀞(ながとろ・東根市)に陣屋を構えたことから「長瀞藩」が誕生した。
2016年3月25日
 天和2年(1682年)2月、遠州横須賀藩(静岡県掛川市)5万石の藩主・本多利長(ほんだ としなが)は出羽村山1万石への移封を命じられた……と書けば簡単だが、実は村山藩は実態がほとんどわからない「幻の藩」なのである。
2016年3月11日
 慶応4年(1868年)の戊辰戦争(ぼしんせんそう)に際し、天童藩織田家は新政府から奥羽鎮撫使(おううちんぶし)の先導役を命じられた。たった2万石の小藩だが、「信長公につながる格別の家柄」というのが理由だった。
2016年2月26日
 天童藩の祖は織田信長の次男・信雄(のぶかつ)である。江戸期の大名で織田は4家あったが、宗家は天童藩の織田。ただ天童藩が成立するのは天保元年(1830年)で、立藩までには紆余曲折(うよきょくせつ)があった。
2016年2月12日
 享保4年(1719年)、米沢藩5代藩主・上杉吉憲(よしのり)は、新田開発で得たうちの1万石を弟の勝周(かつちか)に与えた。幕府もこれを独立大名と認め、米沢新田藩(よねざわしんでんはん)が誕生した。
2016年1月22日
 米沢藩が莫大な借金を完済したのは、上杉鷹山(ようざん)が死去した翌年の文政6年(1823年)。藩主は11代斉定(なりさだ)である。
2016年1月8日
 50年にわたり米沢藩の改革を主導した上杉鷹山(ようざん)。その手腕に対する後世の評価は高いが、偉業を遂げられたのは鷹山を支える多くの人々に恵まれたからでもある。
2015年12月25日
 上杉治憲(うえすぎはるのり)(鷹山・ようざん)は35歳で隠居し、前藩主・重定(しげさだ)の2男治広(はるひろ)に「伝国の辞」を与えて家督を譲るが、乞われて後見となり、瀕死(ひんし)の状態だった藩財政の改革に邁進(まいしん)する。その基本は「倹約」と「殖産興業」である。
2015年12月11日
 上杉治憲(うえすぎ はるのり・後の鷹山(ようざん))が第9代米沢藩主となった明和4年(1767年)、藩には20万両、今の時代に換算すれば200億円にのぼる借金があった。当時の平均的な米価では、米沢藩15万石の米をすべて売っても3万両だから、気の遠くなるような数字だ。
2015年11月27日
 嗣子のなかった第8代米沢藩主の上杉重定は宝暦9年(1759年)、日向高鍋藩主・秋月種美(あきづき たねみつ)の次男・松三郎を養子嗣に迎えることを決め、翌10年に実子が生まれたにもかかわらずこれを実行した。
2015年11月13日
 実父の吉良上野介(きら こうずけのすけ)が赤穂浪士に殺されて2年後、米沢藩4代藩主・上杉綱憲(つなのり)は40歳で病死した。後継は長男・吉憲(よしのり)である。
2015年10月23日
 米沢藩主・上杉綱勝が寛文4年(1664年)に後継者を決めずに急死した際、上杉の家名存続に奔走したのは3代将軍家光の異母弟で、会津23万石の太守・保科正之(ほしなまさゆき)だった。
2015年10月9日
 会津120万石から米沢30万石に削封された上杉家だが、藩主の景勝と家老の直江兼続(かねつぐ)はしたたかだった。 
 まず、小さかった米沢城を拡張し、近江(滋賀県)国友(くにとも)の鉄砲鍛冶(かじ)を呼び寄せて多数の鉄砲を作らせた。軍備増強を図ったのである。徳川家康に従軍した大坂の陣でも武功を挙げた。
2015年9月25日
 米沢は戦国時代、伊達氏の本拠地だった。「独眼流」で知られる17代・政宗が会津を蚕食(さんしょく)したが、豊臣秀吉の「奥州仕置」により政宗は米沢を含む会津領を召し上げられてしまう。
2015年9月11日